
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第19主日(A年)の説教=マタイ14・22~33
2026年8月9日
わたしたちは日常、いたるところで言葉を使い、お互いにコミュニケーションを取り合います。とはいっても、国、そして、同じ国内でも地域によって「方言」なるものがあって、全く相手に通じないことば、表現があります。また、「言葉」というものは、国、地域によって同じ発音でも、また、同じく使われている表現でも、その意味が異なったりします。身近な言葉に「びんた」があります。
鹿児島において
こうして、み比べてみて思ったことは、方言が、古い言い回しを継いでいるのではないかということです。つまり、「びんた」は行為としての平手打ちと部位としての頭・首の二つの意味を持ち合わせているようです。どこの地域の方言でも、同じようになっているのかどうかは分かりませんが。でも、方言というものはそのものずばりを、標準語に翻訳できない、まさに的確な言い回しがあると思います。例えば、鹿児島の「がっつい」という言葉です。「丁度。ぴったり。とっても。ほんとうに。」という意味ですが、翻訳すると、気持ちが、情感が半減するのではないかという感じになります。なんと、目の前に展開されている情景が、生き生きとしてくるような会話用語です、表現です。
とはいいましても、上手く言葉で表現できない時、出来事があります。みなさんはいかがですか。あることを前にして、その時の気持ちを、思いを、うまく表現できない時はありませんか。子どもたちが、欲しかったものをいただいたときの気持ち。あの絶品の笑顔がすべてを物語っています。先日国民栄誉賞を受けたスピードスケートの高木美帆さん、受賞後、この受賞を「うまく言葉に表現できない」と語っています。
ときとして言葉は、時と場所、地域によっても意味する中身が変わってくるものですが、わたしたちが手に取り、目にする聖書の言葉は、日本語に翻訳されたものです。イエスが使われたその時代の言葉の意味するものが、翻訳の限界もあるのでしょうが、日本語の意味する内容とどこか違うような、違わないような言葉があります。

今日の福音書から一つを取り上げてみますと、ペトロの言動にあります。
「 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた『イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。』」
この中で、「疑う」という言葉です。日本語では、どちらかといえば、疑うという言葉は、どこか否定的な意味合いが強いことばとして使われ、どこか、何となくそう思い込んでいるわたしたちがいるのではないでしょうか。そこで確認してみますと、
今日の福音書のペトロは、水の上を歩いているイエスのもとに行きたいと考え、舟から降りて水の上を歩き始めます。しかし、強い風に怖くなって沈みかけ、助けを求めて叫ぶと、イエスから助け出されたのです。ここで、「疑う」と訳された言葉は「二度・二重」という言葉から派生した動詞で、「あることに関して二番目の、つまり別の考えを持つ」の意味であるということです。
ここでのペトロは、「イエスのもとへ行きたい」と考える一方で、「強い風に気づいて怖くなる」という別の思いを持ちました。こうした現象は、わたしたちの日常でよくある体験ではないでしょうか。その時、わたしたちはどちらの状態を選択しているでしょう。言葉が持つ二重性、その豊かさをしっかりと捉えていたいですね。
弱い存在のわたしたち、ぺトロと同じように、人生の苦境にある瞬間、状態にある時、神に向かって叫んでいるでしょうか、そして、神を見つめ、しばし佇ずみ、神への思いにふけっているでしょうか。助けを叫ぶことを知っていれば、イエスはその手をすぐに差しのべてくれます。
人生において、失敗を繰り返しながらも、だからこそ、人間としても、信仰者としても、より成長した福音宣教者として奉仕ができるようになるでしょう。そうありたいです。
神に味方する者(自分)として、・・・。


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