
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第18主日(A年)の説教=マタイ14・13~21
2026年8月2日
歌手で俳優の森公美子さん(67歳)とフリーアナウンサーの寺田理恵子さん(65歳)の対談が掲載されております。(讀賣新聞西部版2026年7月27日朝刊)
そうですよね。生きている限り、わたしたちの人生はいつも他者に開かれています。それは何を意味するかといえば、それぞれに託された役割が必ずあるということでしょう。
そうです、「わたしにしかできない」ことがあるんですよ。そのことにみな一人ひとりが気づいているでしょうか?ということです。このことをつきつめていけば、「わたしだからこそ」できること、ともいえるのではないですか。
今日の福音は、「五千人に食べ物を与える」奇跡の話が読まれます。

この話の中で、気になるのが弟子たちの心身の動きです。「人里離れた」ところまでついてきた多くの群衆に対してなされた、弟子たちの精一杯の心配りです。
「夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。』」と。
当時の群衆の中には、興味本位でついてきた者もおれば、何となく、みんなが行くから自分も行こうとした者もいたかもしれないし、イエスの魅力に惹かれてきたもの、実にイエスの人格と本物の力に引かれてついき、身も心も疲弊し、飢え渇いている人もいたでしょう。今、イエスの前に座っている人たちの置かれた状況はさまざまです。
それがゆえに、弟子たちにも群衆の物心両面にわたる置かれた状況、つまり、人々の疲れやさびしさ、労苦や重荷がひしひしと伝わってきたのではないでしょうか。しかし、弟子たちにはこうした現状を前にして、なす術がないのです。ごく常識的な手段しか思いつかないのです。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」と。
ところが、イエスの答えはそうではありませんでした。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われたのです。弟子たちは慌てたことでしょう、どうしようかと。五千人の群衆に、十分間に合うだけのたべものは手元にはありません。それでも、イエスは「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」といわれるのですから、どうしようと慌て、うろたえたのではないでしょうか。手元にあるのはパン五つと魚二匹しかないのです。これではぐったりと疲れ果てた群衆の飢え、渇きをいやすことなどできるわけがないと思いつつも、イエスがどうにかしてくれると、ひそかに思う弟子もいたかもしれませんが・・・。
しかし、弟子たちがどうにかできると思ってはならないのです。人々の労苦を思い、背負い、救うことのできる方は、イエスだけなのです。弟子たちではないのです。とはいっても、確かに、彼らは一般の人たちとは違います。彼らは自分の財産を捨て、イエスの人格にひかれ、イエスに自分の人生をかけています。一般の人たちよりもイエスの近くで、深く、親しくイエスの神秘に触れています。イエスも、こうした弟子の姿を見て、彼らを育て、役割を与えます。さらに、特別に祈りを教え、彼らだけにたとえ話の説明をし、彼らだけをとくべつに指導します。彼らにも村々をめぐり福音を伝え、病をいやす力をお与えになります。こうして彼らを、ご自分と人々との間に立てようと意図し、育てられたのでしょう。事実、イエスは彼らを通してパンを人々にお与えになります。
弟子たちは、イエス亡き後、教会の指導者となる人々です。でも、イエスなしでは何もできない指導者です。無力なのです。彼らが「教会の指導」として意味をもつのは、彼らがいつもイエスを見つめ、イエスの心と一つになるときです。
これは、今の「教会の指導者」にもいえることです。もっとイエスを見つめましょう、イエスを求めましょう。もっともっとイエスの神秘に触れましょう、もっとイエスから光と力を汲み取りましょう。そうしなければ、人々の前でいい指導者にはなれない、無力な存在でしかありません。
このことが分かっていない。だから、かえってひとびとを躓かせることになりえます。信頼されなくなります。頼りがいのある「指導者」にはなれないでしょう。
イエス「だからこそできる」ことを、わたしたちに示し、照らし、そこに導こうと待っておられます。それに注目し、求め、祈りましょう。
イエスに繋がらなければ、わたしたちは無力ですから・・。
わたしたち一人ひとりが、よき「福音宣教者」となるために、・・。


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