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年間第11主日:イエスの目はどこを、何を見ているのでしょうか

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年間第11主日(A年)の説教⇒2026/06/14

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第11主日(A年)の福音=マタイ9・36~10・8

2026年6月14日

いつの時代も、外国による侵攻、搾取は、当事国は言うまでもなく、周りの、場合によっては世界の経済的困窮を招き、混乱をきたしてしまいます。それよりも大事なことは、一人ひとりの人権が踏みにじられることです。日常の生活も、屈辱的な日々を強いられ、中にはそれらに反抗を試みる人たちも登場したりしますが、過去の出来事が物語っているように、そのような反抗と暴動は、よりひどい悲惨な状態を招くだけです。心身ともに疲れ果て、絶望の際に立たされた無数の人々が巷にあふれるだけではないでしょうか。

日々の報道を見ますと、今のこの時代において、まさにそのようなことが起きています。残念です。このような時こそ、お互いをいたわり、助け合っていこうとする、人間本来が持っている優しさが、表に出てこないんでしょうか。こうなりますと、国と国との関係ですから、個人がじたばたしても(?)全体をゆり動かすほどの「地震」にはなりえませんよね・・残念です。

こうした出来事の背景に、何かがあるのではないかと、個人的な見解ですが、思っています。

と申しますのは、社会の雰囲気というか、傾向と言いますか、あまりにも個人志向、つまり、表現を変えれば、利己的な傾向が強くなってきたのではないでしょうか。それが、個人のレベルで済めばいいのでしょうが、会社的、職場的な公的な広い環境下で標榜されると、その影響力も大とならざるをえません。

それが国家的なレベルの公的機関になりますと、大変なことになりはしないでしょうか。今、それに拍車をかけているのが、我が国においては「人口減少」という現実もあるように思います。働き口をさがしている一人ひとりにとっては仕事の選択肢も広がり、いい状況になってきたといえます。なんといっても「売り手至上」が現実となっているのです。簡単に言えば、「働きたい人」よりも「働き手を探している企業」の方が多い状態です。

社会は、職場はいろいろな価値観、能力を持つ人が、その能力を結集して一つのものを作り上げていくところに、社会、職場のさらなる結束を生み、一人ひとりのよりよい成長を促しているのではないかと思っています。職種によってその現場の中身は異なるでしょう。しかし、職場において、一つの製品を作り上げ、成果を出すまでには、能力を発揮して積極的に貢献する場面もあれば、身を引いて他者の力に頼るところもあり、それこそ「わたしたちのもの」が誕生していくのではないですか。その作業には一定の流れがあって、それを全員で分担し、共同作業が一人ひとりを奮い立たせていくのではないかと思っていますが、・・。こうした感覚が、さらなる新たな製品、成果と、より成長した人間を創造していくのではないかと。

「教員確保へ腐心」「免許所有者“発掘”・余暇の楽しみ紹介」なる大きな見出しが目に入ります。(南日本新聞2026年6月8日朝刊)

「教員のなり手不足を解消しようと、鹿児島県教育委員会があの手この手で人材確保に取り組んでいる。背景には、かつて10倍を超えた教員採用試験の倍率が近年低迷し、本年度採用分では過去最低の2・2倍となった状況がある。教員免許を持ちながら教職についていない“潜在教員”の掘り起こしを図り、現職教員の余暇活動を紹介するなど、教員の魅力アピールに腐心する。」とあります。

ここにも人口減少の影響が出てきています。何も教育の現場だけでなく、いたるところに人口減少の影響の波が及んでいることは、今や驚きもしない現実になっています。「教職は子の成長を見守るやりがいある仕事」としつつ、人手不足による売り手市場が続く中で「給与のいい民間企業が選ばれるのだろう」と想像します、と報道は伝えています。「やりがいある仕事」であればあるだけ、他者が喜ぶ仕事に就いたからといっても、その報いとしての給与は確かに低い。こうした現実を前にして、生きる価値観、仕事の価値観がどこにあるのでしょうか、と考えさせられます。

年間第11主日:イエスは群衆が弱り果てているのを見て、深く憐れまれた
〔マタイ9・36~10・8〕そのとき、イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

今の時代、現代ならではの苦しみ、貧しさ、疲れ果てた姿の原因はさまざまでしょうが、イエスの時代においても、同じような環境に晒された人々はいました。

イエスの目は、そのような人々の姿を見ていたのではないでしょうか。つまり、表だけの観察ではなく、表は普段と変わらぬように見えても、その奥に潜む人間の悲しい姿を見つめていたという方が当たっていると思います。いつもイエスの対象は「人」でした。それもイエスのはらわたをゆり動かすほどの悲しみに満ちた人々でした。憐れまずにはいられない人々でした。別な言い方をすれば、イエスが行動するきっかけ、動機は人々に対する憐みの心に支えられているのです。

イエスが弟子たちを派遣するのは、この活動を継承させるためです。「収穫(刈り入れ)」は「世の終わり」を表すたとえです。(マタイ13章39節参照)「収穫の主」である神とイエスによって派遣される弟子たちは「天の国は近づいた」と宣言し、力ある業を行うことによって終末の到来を告げ知らせます。こうしてイエスの教えと業は弟子によって引き継がれ、今もイエスが働いているということを、マタイは示しています。

「救い」は先ずユダヤ人に告げられますが、異邦人に広げられてゆきます。そして、弟子たちによる宣教活動は、民族を超えた「新しいイスラエル」としての教会として結実してゆきます。神の愛は今もすべての人に向けられているからです。

神の前では、いつも、その状況下にある「素のままのわたし」が立っています。たった今の「わたし」はどのような「わたし」ですか?

神の愛は今もすべての人に向けられ続けています。

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