年間第2主日(C年)の説教=ヨハネ2・1~11
2025年1月19日
新年には、無病息災の祈願、一年の初めに当たり、家内の安心安全を願い、邪気を払う等、神事に関する報道が次から次へと出てまいります。その地における伝統的な行事として親しまれ、集落こぞってのお祭り等も含まれます。この種のお祭り、それに伴う行事が集落ごとにあるわけです。報道担当記者としても、どれだけの人員を派遣しているのか分かりませんが、すべてを取り上げることは多分困難でしょう。こんな事を言うと、報道記者の方から叱られそうですが、・・。
そのお祭りのどれを取り上げても共通しているのは、人間一人ひとりが心から神の助けを必要とし、祈り、願っていることです。そして、、どのお祭りにも、 神道の神事において神に奉納するための歌であったり、踊りであったり、その他のふるまう姿が伴います。
その中の一つ、「神楽は日本の神道で神事の際に、神様に奉納する歌舞のことであり、約90種類の神楽歌が存在しています。神楽は神座に神々を降ろし、人々の穢れを祓ったり、神がかりによって人々と交流する宴の場で行われる歌舞です。古代から現代に至るまで、神楽はその魅惑的な動き、鮮やかな衣装、そして魅力的なメロディーで、地元の人々と訪問者の両方を魅了してきました」(ウィキペディア)
そしてこの度、小学校6年生の西麗晶さんが巫女舞を舞ったということで投稿しています。(南日本新聞2025年1月14日朝刊)引用してみます。
「田ノ浦地区(志布志市)で2年に一度の特別な行事「夜神楽」がありました。わたしは友達と二人で巫女舞を舞いました。相手の動きを見るだけでなく心で感じることが大切です。・・・最も大切にしていることは、最初と最後の一礼です。簡単な動作だけれど、礼で思いを伝えられるのは素敵なことだと思います。寒い中でも見に来てくれたお客さんや家族、練習を指導していただいた地域の方々に、感謝の気持ちをもって心を込めて礼をしました。最後の礼の後にたくさんの拍手と温かい言葉をもらいました。・・・時代が流れても、愛され続ける行事があってほしいです。」
小さい頃の体験はやはり強烈です。その時期を体験し、経てきた大人、親は、その体験を生かした子育てを目指すことが求めらるのではないでしょうか。そして、その体験をいかに生かすことができるのかにまい進することが、この親、あの親、この家庭、あの家庭の教育方針となっていくのではないでしょうか。
中でも宗教体験というか、宗教教育は幼児期のこの時期が一番適していると、かねがね思ってきました。ですから、大人が、親がして見せることの意義、大切さが、どうしてもこの時期は必要となってきます。子どもが、ちょっと大きくなって「強制的」に宗教に向かわせようとしてもなかなかです。より純粋な時期(幼児期)にきれいな姿、荘厳、気持ちよさを体験していないからです。幼児期は少ない言葉の説明にプラスして、行い、仕草(振る舞い方)を子どもの前でして見せることで十分なのです。
きょうの福音は、イエスがカナの婚宴に招かれた話です。これは日常的な一風景です。きょうの話を通して受け止めていきたいこと、乃至は、神がどのように人間の日常と関係を持とうとしているのかを黙想してみたいと思います。
先ずは、イエスがわたしたちと同じ姿を取って人となられたこと、これはどのような意味があるのでしょう。言うまでもないことですが、わたしたちの救いのために誕生なさいました。そのために、わたしたち人間の営みのすべてを体験すること、このことによってわたしたちに寄り添うイエスの姿があります。それというのも、わたしたちとのかかわりは、悲しみや苦しみの中にいる時だけではありません。わたしたちが嬉しい時、楽しい時など、喜びの只中にいる時もイエスはかかわってくださいます。かかわっていただかないといけないのです。
なぜならば、人間の喜びも嬉しさも、天からの恵みにつつまれるのでなければ、もろくて崩れやすいからです。現に、きょうの福音では喜びの絶頂にある婚宴の席での話です。ブド―酒がなくなったのです。日常ありうる小さなことですが、宴会の席ではやはり酒は主役です。それがなくなるということは一つの恥でした。ある種、面子に関わることでもあったのです。
このような些細な日常的なことに気づいた母マリアは、このことをイエスの前に、いち早く差し出します。ここでもまたイエスは母に、人間的に見ればなんとも冷たい言葉を返すのです。でも、母マリアは深い信頼のうちにイエスの言葉を受け止められました。そして、召使にイエスのいう通りにしてくださいと頼みます。そして奇跡は起きたのです。
この奇跡には、特別な身振りも言葉も書かれてはいません。また、水がブド―酒に変化した瞬間も描かれていません。イエスの存在を通して、いつの間にか水がブド―酒へと変えられていったのです。みなの前に出され、五感に感じるものは上等のブド―酒の味でした。人間が何も知らない、気づかないうちにことは済んでいました。宴会のご主人は面目躍如といったところです。
わたしたちは必ずどこかで、何かを神に頼ります。恵みと力を願い祈っています。例外なく人間がとる態度であり、心です。それは「時」を選びません。正月が来たからとか、命日だからとか、○○記念日だからとか、その日じゃないといけないということはないのです。日常どんなことでも、いかなる時にも神に顔を向けることができます。そのためにイエスはわたしたちと同じ人間の姿を取られたのです。したがって「できます」ではなく、「しなくてはいけない」のではないでしょうか。わたしたちは弱くもろいからです。きょうの福音のメッセージはここにあります。
人間は、自らが何も知らないままに危機に遭遇している時がありますが、神はそこにそっと来て救ってくれるお方なのです。神はそんなお方なのです。
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