待降節第4主日(C年)の説教=ルカ1・39~45
2024年12月22日
いよいよご降誕の祝日が近づいてきました。すべての人が待ち望んでいた方がおいでになるのです。まさにすべての人にとって祝福の日となります。
しかし、全人類に先立って神の祝福を受けた方がいらっしゃいます。それは言うまでもなくマリアです。きょうの福音書の始まりは、恵みにつつまれたマリアをたたえる場面が紹介されています。マリアがエリザべトの家を訪れたときの、エリザベトのマリアへのあいさつがそれです。
このような挨拶はどう考えても日常的ではありません。神の祝福を運ぶ手立てとなっています。神の祝福を運ぶあいさつですから、そこには「聖霊」が働いています。自分を振り返ればわかるように、普段の生活の中で、自分の言動の中に「聖霊」の働きに気づいて行動している人が何人いるでしょうか。今のこの仕事は、自分が判断し決断し実践に移し、動いていると考え、そう思っているのが普通ではないでしょうか。
エリサベトもマリアに「・・・あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。・・・」と語るときには、41節には書かれていた「…聖霊に満たされて…」が欠けています。なんだか不思議な力が働いているなとエリサベトは感じていたのでしょうが、それが聖霊の働きであるとは意識されていなかったのです。聖霊はいつも、人しれず働いておられます。その働きを自覚できるのは、出来事を振り返るときに気づくことがあります。それでも、理由あって気づかない人はあるでしょう。
しかし、聖霊の働きは、その人が意識しているか否かに左右されません。エリザベトの場合も、彼女は気づかなかったとしても、マリアが神の母になる恵みを受けたことを彼女に知らせたのは聖霊です。だから、マリアのあいさつを聞いて、エリザベトの胎の子が「喜び踊った」ときすぐに、出来事の意味を彼女は悟ったのです。
わたしたちの人生においても、同じようなことは起こりえます。何も不思議な出来事が伴うわけではありませんが、わたしたちの日常もいろいろな思い、出来事が錯綜していて複雑です。その中からすっきりとした方針を見せ、示してくれるのは、人知れず働かれる聖霊なのではないでしょうか。それに気づく訓練を日々重ねていきましょう。わたしたちの訓練とは別に、聖霊はいつものように働かれます。
わたしたちの現実社会に目を転じれば、周りにはいろいろな境遇に置かれた人々がおられます。その中に、重度の障害があるお姉さんと共に生活している一人の高校生がいます。彼は鹿児島城西高校(日置市)の社会福祉科一年生に在籍している板木光輝さん(指宿市)です。(南日本新聞2024年12月16日朝刊)
この度、彼は「介護福祉のみらい作文コンクール」に応募し、最優秀賞に輝いています。重度障害がある姉と両親の歩みに触れながら「障害分野に特化した介護福祉士になって家族を支えていく」とつづっています。「『福祉』について考えたこと」と題し、400字詰め原稿用紙5枚にまとめました。
光輝さんは「親なき後」を心配しながら子育てする両親のために、進路を定めたといいます。そして言われます。「障害者と健常者が、もっと平等に暮らしていける社会になって欲しい」と。
光輝さんが目指している介護福祉士という仕事は、彼が生活していた家族の中で、自ずと芽生えてきた、いわば「天命」のような仕事だったのではないでしょうか。そして、光輝さんはその誘いに素直にのったのです。
つまり、板木光輝さんが意識していたか否かは分かりませんが、確かに彼の中で何かが揺り動かしていたのです。彼はそれに身を任せていただけなのです。無意識のうちに、・・。神がひそかに働くことによってもたらされた喜びの結果なのです。これにより、板木光輝さんはもちろんのこと、そのご家族、また関係者の方々、その他多くの障害者にとっても喜びであったことは言うまでもないことでしょう。
日常、聖霊の働きに気づく感性を養うために要求されること、それをエリサベトが今日、わたしたちに見せてくれているのではないかと思います。それは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」というエリサベトのマリアへのあいさつの言葉にあります。
信仰者としての原点は、神の言葉を信じ、そして信じぬくことからくる喜び、それがきょうのエリサベトの姿に見て取れます。さらに、聖霊の働きは多様ですが、その一つは神が関わる出来事を語らせることです。ですから、エリサベトだけでなくザカリアもシメオンも聖霊に満たされて賛歌を歌いました。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」マリアが、わたしたち信仰者のみほんであるということが、エリサベトを通して聖霊は教えています。さらに、聖霊はエリサベトにヨハネの名前、マリアが神の母になる恵みを受けたことを悟らせます。
「・・・は必ず実現すると信じた方」マリアは、何百年も前に約束された神の約束が実現すると信じ、祈り続けているのです。その神の姿は今も変わりがありません。このマリアの信仰はイスラエルが暗闇の試みの中で鍛えられたまことの信仰です。歴史の中で信仰は鍛えられるのです。
そうです。信仰は生きています。成長します。鍛えられるのです。
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