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聖家族:「分からない」ときは「心に納め」、相手に寄り添うこと

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聖家族(C年)の説教

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

聖家族(C年)の聖書=ルカ2・41~52

2024年12月29日

いつの時代においても、子を思う「親心」に、時の流れに伴う差異はないと確信しています。つまり、時代により親心に変化が生じるということはあり得ないということです。これまた、国籍、民族等においてもその違いは全くありません。その心の表現の仕方、外観に出てくる表情、雰囲気には民族性が出てくるかもしれませんが、これもまた、人が持っている豊かさの一つであろうと思います。

この豊かさの内容の受け止め方、理解のあり方に行き違いがあって衝突、無理解等が生じてくるのでしょう。つまり、人間には誰にでも何かの「限界」があるということです。この「限界」に気づき、認め、対処する内容如何に、その後のその人の生き方が、大きな影響を受けてしまいます。何も対処しない時、その人の「限界」は他者とのかかわりの邪魔になってしまうでしょう。挙句の果ては衝突、物別れの原因にもなっていきます。

毎年のことながら、年末に近づきますと同時にクリスマスもわたしたちの大きな関心事の一つになっていることは確かです。新聞等の報道機関もいたるところのサンタクロースにまつわる話を紹介しています。サンタが会場にやってきますと、子どもたちは一斉にシーと静まり返る子と、感激のあまり(?)絶叫してしまう子とに分かれるような感じです。

静かになる子たちは、本物のサンタクロースの登場にびっくりしている様子です。それでも、恐る恐るながらサンタさんの近くに寄ってくるのです。サンタクロースに関心があることは確かです。

賑やかになる子たちは、そのまんまです。サンタクロースに会えた喜び、嬉しさをそのまま表現しているようです。素直にあそこまで表に出せるのは、やはり子どもたちの中にある純粋さ、清らかさでしょうか。稀に、大人の中にも子どもと同じくはしゃいでいる、というと失礼になるかもしれませんが、一緒にサンタクロースと英語で話しているのでしょうか、会話している姿があります。そして、子どもたちと同じテンションで喜べる、ヒートアップする大人の方々もいらっしゃるんですね。なんだか羨ましいなと思ってしまいました。

このように、報道番組を見て、読んでいろいろなことを感じ、思いを巡らしてしまう自分を振り返りますと、自分が抱く「感じ、思い」が客観的に彼ら(子どもたち)と同じ思いを共有しているのかといえば、その保証は何もありません。共有しているかもしれないし、そうではないかもしれないのです。とどのつまりは、わたしと彼らは違うし、そのことはお互い、「分からない」ことがあるということでもあるでしょう。

聖家族:イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された
聖家族(C年)の聖書=ルカ2・41~52 イエスの両親は過越祭には毎年エルサレムヘ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。

きょうは聖家族の祝日です。わたしたちは、日頃は家族は大事であると言い、そう思っているほどに、家族を実際は大事にしているのでしょうか。うっとしいとか、面倒くさいとか、家族皆で行動を共にすることを、いざとなれば回避する人が多いのではないかと、・・。

きょうの福音の中で、衝撃的なイエスの言葉が気になります。12歳になったイエスの成長を祝って、エルサレムの神殿に上った聖家族。マリアもヨセフにとっても、心も晴れ晴れとした親の気分そのものだったのではないかと思われます。ところが、帰りの道中にイエスがいないのです。いわば行方不明者になったのです。マリアもヨセフも、普通の親と同じように、気持ちが動転し、心を痛めたと考えてもおかしくはないでしょう。親は子の成長を自分の人生の希望として生きるのが普通ではないでしょうか。マリアもヨセフも同じだっと思われます。

その中にあってイエスに言われた言葉「イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか』」は何と人間味のない、親の気持ちを理解する心が、イエスになかったのでしょうか。しかし、きょうの福音の最後に「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」とあります。また、その後のイエスの言動から、人間の苦しみや悲しみを理解し、つつみ込んでいく心が十分にあったということはできるでしょう。そのイエスが、成人の時を迎えて、親に向かって冷ややかな言葉を、どうして言ったのでしょうか。

わたしたち人間の世界でも、子どもが独り立ちしようとするとき、なにがしかのサインを子どもが送り、親がそれをキャッチします。でも、何のサインもなく、気づいたら、いなくなっていることもあるようです。せめて親に挨拶だけはしておきたいですね。実はここに、世代間の違い、立場の違いからくる「分からない」ことが横たわっているのではないでしょうか。

イエスの場合もそうでした。マリアとヨセフから離れて自分の使命に向かって飛び立とうとする時を迎えたというのが、この冷ややかな言葉となって告げられたのではないでしょうか。しかし、マリアには「分からなかった」のです。

 そこでマリアがとった対処のしかた、それは「心に納める」ことでした。「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」のです。この対処のあり方は、歴史の中で働かれる神への信頼があって初めて可能な態度です。したがって、聖家族も人間的な限界を兼ね備えているのです。限界を備えているからこそ神への信頼を思い起こすことができるというのです。

日常わたしたちが「分からない」とき、そのような対処の仕方を心がけているでしょうか。

聖家族は「心に納めた」のです。

その結果、より相手に近づいていました。

 

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