王であるキリスト(B年)の説教=ヨハネ18・33b~37
2024年11月24日
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」イエスはピラトの前で、堂々とこのように宣言なさいます。
「ところでみなさん、あなたがたは何のためにこの世に生まれてきたんですか」と尋ねられたことがあるでしょうか。物心ついて成長し、自ら意識できるようになって、気が付いたらそれぞれに、一人ひとりはこの世に生きていたというのが現実ではないでしょうか。
また、高齢者になった今、その方々に「あなたがたは何のためにこの世に生まれてきたんですか」と改めて問うたところで、どのような答えが返ってくるでしょうか。「その時必要とされたこと、求められていることに一生懸命奉仕してきた」というような答えが、返ってきはしないかと思っておりますが・・。でも、わたしたちにとっては、これが正解のような気がしますね。
福祉活動の一環で、高齢者施設訪問を大事にし、巡回訪問を実施しているボランティア団体があります。日本国内にはあらゆるところにこうした活動が展開されているような気がします。高齢者に対する意識が高まり、ボランティア活動に、自主的に参加する人たちも出てきています。
志布志市の宮ケ原耕平さん(81歳)による「ボランティア・コウチャン劇場」が高齢者サロンで好評なのです。歌あり、踊りあり、健康トークありで高齢者の元気の源になっています。5年程前から巡回し、今年はすでに公演10回。まもなく芸歴30年で「元気な限り続けたい」と意気盛んです。(南日本新聞2024年11月16日朝刊)
具体的にどのような内容のことが演じられているのかといえば、先日(8日)の公演の中身を紹介してみましょう。その日の会場は中宮ひまわりサロン(志布志市志布志町安楽)でした。約15人の高齢を前に、薬物乱用防止の話、思いやりと共生の大切さを講話。演歌を歌い、衣装替え後は綾小路きみまろさんの物まねで創作話を披露したということです。さらには、簡単ストレッチも実演して会場を沸かせたということです。
人は皆、若い頃は仕事に従事し(奉仕)、そして、生活の糧(給料)をいただき、平和裏に生きてきました。その働きは、結果として多くの人のため、社会の発展のため、そして、地球上のすべての人の平和の享受に、大きく貢献してきたことは言うまでもないでしょう。
そうなんです。わたしたち一人ひとりの人生は、自分のためであるとは言いつつも、同時に誰か他者のためでもあるということができます。この思いは誰の心にもあるでしょう。
「『利他の心』持ち余生を生きたい」というタイトルで投稿なさっておられる方がいらっしゃいました。鹿児島市の無職・田淵勝次さん(79歳)です。
この「利他の心」とはどのようなことを指すのでしょう。次のようです。(Ogg..IPより)
きょうは「王であるキリスト」の主日です。福音は、イエスがピラトの尋問を受けている場面が朗読されます。この場面で重要なことがあります。それは、イエスが「ユダヤ人の王」なのかどうかということです。すなはち、ユダヤに頻繁に見られたローマ帝国に反旗をひるがえす政治的メシア運動の首謀者かどうかということです。ここでピラトは、「あなたはユダヤ人の王か」とイエスに迫ります。それに対してイエスは決定的な答えを与えます。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」と。
きょう、イエスがわたしたちに語りかけたいことは、イエスによってこの世にもたらされた真理に属する者、上なる神の領域に属する者はイエスの声を聞く。その意味においてイエスは王です。ところが、政治的な関心、社会的な関心、現実の生活に重きを置きすぎて、妥協を繰り返す生き方に明け暮れているピラト。真理から顔をそむけ、神の啓示者に相対しても理解することがないのです。
その上、イエスの言動は、もっぱら人間の救いのために意図されたものでした。敢えて言うならば、「利他の心」いや、それ以上だったのです。
今の「わたし」はどうでしょう。イエス降誕を前にゆっくり、でも、しっかりと自分の「ありのまま」を神の前に差し出してみましょう。
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