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四旬節第2主日:イエスの生きている世界は「わたし」に近いですか、遠いですか

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四旬節第2主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

四旬節第2主日(B年)の説教=マルコ9・2~10

2024年2月25日

怪しげ、快活、賑やかなど、人はさまざま

わたしたちの身近には、いろいろな人がいらっしゃいます。何を考えているのか、その言動がわかりにくい怪しげな人、それに比べて快活そのもので、にぎやかな人、自分を曝け出すことを苦にしない人など、さまざまです。

とはいうものの、どんな人であれ、これらのことは、その人とかかわりを持ってはじめてわかることです。そして、非人情的な人、温かい人情味にあふれた人など、どうしても自分と同じような「人間味」を感じる人に共感していくのではないでしょうか。

でも、現実的に、身近なところに同じような感覚をもって生きている人など、そうそうたくさんいるわけではありません。だからこそ、「わたし」という人間の成長に大きな刺激になる材料が、たくさんわが身の周りには存在するということでもあります。冷静な時はそう考えることができたとしても、急いでいる時、慌てたりしている時、苦境に立たされたている時など、なかなか同じようにはいかないのがこれまたわたしたちの人生です。だから、その存在が煩わしくもあり、うっとうしいときがあるのです。

アスリートに多い”慕われ目標にされる人”

とはいっても、人生の模範となるような人の存在があるのは確かです。よく言うじゃないですか。「あの人のような生き方って素敵だな」とか「○○さんのような生き方を真似てみたい」とか感じる時、人ってありますよね。そのような人は、たくさんの人から慕われ、尊敬されているのに、だからと言って、何かしら傲慢ぶるわけでもなく、己の道をひたすらまっしぐらに走っている感じです。そんな人って、誰からも応援されますよね。生きる目標にされますよね。

でも、そうなるまでには、本人としてはかなりの努力と犠牲等が伴った過去をお持ちではないのかなって感じています。不思議と、そのような人ってアスリートに多いですよね。それもプロ野球の世界に。今のドジャースの大谷翔平氏、かつての長嶋茂雄、王貞治、野村克也氏、また、マリナーズのイチロー氏など。悲しいかな政治家の中には、わたしが意識している限り、見当たりませんよね。プロ野球が、それだけ国民の近くに存在する世界の話だということでしょう。政治の世界も身近であってほしいですね。そうさせないのが政治家本人だからどうしようもないです。そう感じています。

イエスが民衆に慕われ、人気があった理由

イエスの時代にもモデルとなるような人が存在していました。この上もなくすばらしい人でした。多くの人に慕われながらも、ただやっかみからか、または、その人たちが掟に忠実過ぎてなのかは分かりませんが、あまりの人気の強さに圧倒されてからか、それらの人たちからは亡き者にされようとまでしたのでした。そして、自分たちの輪の中からはじき出してしまいました。言うまでもなく、その素晴らしい人とは、イエスキリストご自身です。

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イエスがどうしてそれまでにも大勢の人に人気があり、慕われたのかを考えてみますと、イエスが一番、民衆の世、民衆にとってはすばらしい身近な立場の存在者であったということではないでしょうか。人の気持ちがわかり、その状況に応じた振る舞い、言葉かけをしてくれていたのでしょう。ファリサイ派とはかなり違う民衆への近づきかた、心配りがイエスの中にはあったのです。いわゆる「人間味」あふれるイエスでした。幼いころマリアとヨセフに、貧しくはあったけれども、心の安心、豊かさの中で育ち、それが大きくなって自分の使命に目覚め、霊によって荒れ野で鍛えられたイエスがそこにはありました。

イエスの影響を一番強く受けたペトロでも

そのイエスの影響を一番強く受けたのがペトロだったでしょう。ペトロをたどってみますと、わたしたちと同じような弱い、激情的な、短気な男に見えますが、その実、イエスに一番近い存在であったのではないかと思います。その人間味はイエス直伝のものだったのでしょう。今日の主の「ご変容」の出来事を見ても、ペトロの反応が中心になっています。 ペトロの振る舞いと同時に、ペトロの心情(感情)も描かれています。

「 ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」

とあるようにペトロの慌てふためいているさまが読み取れます。

人は予期もしない出来事が目の前に展開されると、我を失くしてしまいます。そしてそのときにうっかり口について出てきた言葉は、得てしてその人の本音が出ていますが、明確に記憶に残っていないのです。子どもの姿と同じです。子どもはいつも一生懸命です。しかし、それが意識的になされているわけではありません。だからそのすべてを覚えているわけでもないのです。でも、目の前のその課題に対応しようとします。この時のペトロの姿は、まさにそうした姿であったように思います。

でも、半ば興奮した状態にありながらも、間違った言葉、内容を口走ってはいないのです。ここがペトロのすばらしさであり、子どもたちのすばらしさであります。少なくともペトロにとっては、それまでに見てきたイエスの姿は、向かうところ敵なしの盤石な力強さを備えたイエスばかりを見てきたし、そう信じてきた経緯があったのです。自分たちを苦しみから解放してくれるメシアであるとの期待感に満ちていたのです。

イエスの使命(神のみ旨)を誤解していた

ところが、ペトロは、神の思いと神のみ旨の中にあるイエスの使命を誤解していたのです。このことは、次の話の中で明らかにされています。

「イエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです。』するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」(マルコ8.29~33

と、ペトロはサタン呼ばわりされています。

その後のペトロは、ひたすら「これに聞け」というおん父からの指示通り、イエスの神秘に目を挙げるのです。もっと、イエスの生き方を学ぶことに専念するよう呼びかけられています。日ごろの積み重ねでしかありませんね。その中で、ペトロは少しずつ、変えられていきます。

イエスの生きている世界は「わたし」に近いですか・・・、遠いですか、・・・。

 

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