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年間第14主日:「幼子のような者」に示される神の隠し事、それは…

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年間第14主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第14主日(A年)の説教=マタイ11・25~30

2023年7月9日

誰も、わざわざ考える人はいないと思いますが、人間がこの歴史に初めて登場するのはいつのころなんでしょうか。具体的にそれがわからなくても、かなりの時を刻んでいるのは事実でしょうね。その長さに比べると、一人の人の人生なんてほんの僅かな時間です。でも、一人ひとりにとっては大事な、貴重な時であるのは確かです。その上、そのほんの僅かな期間、自分の思い通りの人生を、どれだけの人が過ごしたのでしょうか。そして、自分以外の多くの方々と共に過ごす中で、嬉しかったこともあれば嫌なこともあります。

喜怒哀楽のどれが強烈に残るだろうか

今、そのうちのどちらが強烈な印象に残っているかといえば、嫌なこと、きつかったこと、苦しかったこと等のほうが大半でしょう。そして「わが人生は暗かった」と言う。しかし、それは単なる思い込みではないかと思う時があります。それというのも、仕事している時間が長いし、その上、一日の半分以上を職場での仕事に掛けているからではないでしょうか。しかも、嫌なことがあるとその解決のために、それこそ全身全霊を尽くすからで、その結果が良ければいいのですが、悪かったとなると、その後の日々がとても辛い、嫌な毎日となるからです。尾を引かなければいいのですが、どうしても気になってくるものです。思い出すんですよね。多くの方が同じような体験をなさっているのではないかと、・・。なければ幸いです。

仕事上の失敗ではありませんが、国レベルの失政によるトラブルとなると、その究極的なものは戦争でしょう。その原因はさまざまでしょうが、少なくともその結果として、情け容赦なくすべての国民にその被害が広がります。

被爆者運動のシンボル「折り鶴」の話

今では忘れ去られてもしょうがないのかなと思う反面、若者にその継承者として引き継がれていく姿が見え始めてきました。それというのは、第二次世界大戦の語り部たちです。

その戦いに敗れた末に、命をなくした一人の少女の話です。「原爆の子の像」のモデルになった佐々木禎子さんです。彼女が残した折り鶴の複製が、バチカン市国に贈られることになりました。(南日本新聞2023年7月3日朝刊)

1945年8月6日、2歳の時に広島で被爆した佐々木禎子さんは10年後に白血病を発症。回復を願い病床で鶴を折り続けました。しかし、入院から8ヵ月後、12歳で亡くなったのです。彼女の同級生らが呼びかけ、禎子さんをモデルにした「原爆の子の像」が広島市の平和記念公園に立てられ、そのエピソードは国内外に広がっていきました。それ以来、折り鶴は平和や非核を先導する被爆者運動のシンボルとなりました。

この度のバチカン市国への贈呈に関しては、禎子さんのおい祐滋さん(53歳)の熱い思いが込められていました。それは、「折り鶴には戦争で苦しむのは私で最後にしてほしいという願いが込められている」と語り、今、ロシアがベラルーシへ戦術核配備を進めるなど、核の脅威が高まっている中、再び核兵器が使われないよう教皇に呼び掛けてほしいという願いです。複製を託されたのは樽谷大助(57歳)さん。自らも核廃絶を訴える活動をし、この度はその実績が認められ、複製とともに祐滋さんの思いも自らの言葉で教皇に伝えたいと意気込んでいます。樽谷さんは語ります。「国境に縛られない教皇の影響力は絶大だ。核への警鐘を鳴らすため最善を尽くす」と。

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世界大戦という、一人の人間としてはどうすることもできない災難に合い、その人生が全く予期しないほうに引きずられていった一人の少女の生涯は、12年という短い時間でした。が、それが今や違った形で続けられていっています。自分の思うように生きることが出来なかったとしても、・・。人の世界ではすばらしいことですね。

「知恵ある者や賢い者には隠す」とは

今日の福音においてイエスは、その生涯を通してわたしたちに示された愛の業を「幼子のような者」、わたしたち一人ひとりを通して続けられようとなさいます。

今日の福音の前後を見ますと、イエスはユダヤ人から拒絶され、否定され続けています。こうした拒絶と無理解の中にあっても、イエスが賛美の祈りをささげることができるのは、そうされることが、父の御心にかなうことであるということを、イエスご自身が知っているからです。だから、神への賛美をささげることができました。

ところで、「知恵ある者や賢い者には隠す」とは、何を隠すのでしょうか。「これらのこと」とはいったい何のことでしょうか。その答えをイエスは27節に示しています。「子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」です。つまりは、イエスは「神を現す者である」ということです。これが、神が隠そうとした内容を指しています。誰に対してかといえば、「知恵ある者や賢い者」に対してです。だとすれば、この人たちとは、イエスを認めようとしないユダヤ人、中でもファリサイ派の人々を指しているということになります。

彼らはイエスをメシアと認めず(11章16~19節)、イエスの行う奇跡を見ても、体験しても悔い改めようとしませんでした。これが神の計画のうちにある出来事であると、イエスは知っています。だから「そうです、父よ、・・・」と神の業であることをたたえた祈りになっています。

「幼子のよう」であり続けるところに

イエスが、隠された真実を述べようとしたのは「幼子のような者」に対してです。「知恵ある者や賢い者」は、自分の力で救いに達しようとしますので、イエスが示そうとする天の国の福音を受け入れようとしないのです。それに比べ「幼子のような者」は、神に信頼するしか道がありません。だから、素直にイエスの善い知らせが浸透していくのです。

イエスは常に人々、特に「幼子のような者」に対しては力であり光であり続けています。信仰はこうして受け継がれ、また、信仰は、わたしたちの傍らにいつもいらっしゃるイエスから、力と光をくみ取っていく心ではないんでしょうか。

自分の思い通りに生きられなかったとしても、「幼子のよう」であり続けるところに、恵みが感じられる生き方に変化していますよ、きっとしらないうちに・・・。

佐々木禎子さんの命が、形が違って、新たに展開され、発展していったように・・。

 

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