年間第11主日(A年)の説教=マタイ9・36~10・8
2023年6月18日
「対面回避」が続いた3年余を顧みると…
新型コロナウイルス感染症の発生により、3年間余りにわたり続いた、人と人との「対面回避」、現場に居合わせることなく開催できる「リモート会議」等、できる限り人と人とが直に相対することを極力避け続けたこの期間に、よかったこと、悪かったこと、当然のことながら、両面における評価が出されています。
この現状をどのように評価すればいいのか、一人ひとりの考えには違いがありえます。それは、置かれた場所、任務の違い、職種の差異からくる当然の帰結であろうと思います。それでも、総じてわたしが心配しているのは、特に、子どもたちの成長期の一番大事な時期に、子どもたちを他者から遠ざけ、会話なしの世界に置かざるを得なかったことです。客観的にいって、致し方ないとはいえ、大きな損失であったことに変わりはないでしょう。
なんといっても、子どもたちの成長に大きな影響があったのではないかと危惧するからです。その中身がいかほどのものだったのか、それは誰にも見えませんし、わかりません。でも、子どもたちには、足りないところを取り戻すことができる能力をも兼ね備えていると信じています。今では、彼ら自身に託すしかないな、と思っております。きっと心情の豊かな人間へと成長してくれることでしょう。これまで、多くの方々の支えを感じ、愛情豊かな周りの人々に支えられてきたこと、子どもたちの奥深いところで記憶に残っているはずですから。
人と人の間に立ってこそ本領は発揮される
わたしたちは毎日、あまり強烈に意識することなく、淡々とその日に託された仕事をこなし、また、自由な時間を使って自己を鼓舞する課題にも取り組んでいます。そこにはいつも第三者が関係しています。というよりは、自分一人でできている業務ではなく、第三者の手が入っているということです。そうです。独りぼっちではないのです。一人でいることは、その人をダメにします。人間の存在そのものが、それを許さないのです。「人間」ですから、「人」の「間」に立っている存在なのです。「人の間」で人としての本領が発揮される場なのです。
「教員業務を見直し負担軽減を」という題で投稿なさっている松田安司さん(73歳)が言っておられます。「教員は業務以外に多くの時間を取られている。生徒の声に耳を傾けたり、対話する時間が少ないという。生徒に向き合う時間が少なければ、生徒の心の成長を把握するのは難しいだろう。教職のやりがいを、感じにくくなるのではないか。…このままでは教育の劣化が進むように思えてならない」と。(南日本新聞2023年6月11日朝刊)
”人手不足”問題を考えるとき、大切なこと
今の日本は、いたるところで「人手不足」が言われています。人口全体の減少がそれに拍車をかけ、さらには、社会的な雰囲気、つまり、「職替え」が普通になってきつつある現状が定着してきたのも、「人手不足」を増長させているような気がしてなりません。
この流れにブレーキをかけるために大事なことといえば、それは「人を相手にすること」を大事にすることではないでしょうか。会社の成績、売り上げ増大、販路拡大等がその人の人生そのものであるかのような雰囲気を強く感じてしまっています。ここに仕事のやりがい、生きがいがあるのでしょうか。むしろ、仕事に、働くことに生きがいを感じなくなっている現代人が増えているのではないんでしょうか。そんなに思えてきます。果たして、その背後にあるものは何なのでしょう。
イエスのやさしい眼差しに重要なヒントが
問題が生じたときに、見える部分だけを見て判断することしかできない場合もありますが、その背後にある何かに思いを馳せることが必要な時、しなければいけない時があります。今日の福音に出てくるイエスは、人間をご覧になるとき、イエスなりのやさしい眼差しを向けられます。
「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9・36)とありますが、この時のイエスの目は、現実の生活に苦しんでいる人々の背後に、さらには神を見失って傷つき、疲れ果ててぐったりしている彼らの姿をもプラスしてご覧になっているのではないかと。「打ち拉ぐ(うちひしぐ)」は、意気消沈させる、精神的打撃などでダメージを与える、気力を失わせる、などの意味があります。その受け身の「れる」が付いた「打ちひしがれる」は、したがって、激しいショックや精神的苦しみによって気力、やる気を失わせられてしまった最悪の状態を指す表現といえます。このように人間をご覧になるイエスの心の動きを「あわれに思われた」という表現でマタイは記しています。
まさに、この表現は、人間の痛ましい姿を見、心を揺さぶられてあふれてくるイエス流のやさしい心の反応といえます。イエスの行動の原点は、人々に対する「あわれみ」なのです。
「世の終わりまで」続けていくように
イエスは絶えず、人に向かっています。その時が一番イエスらしさが発揮されるのです。そして、イエスの使命もその時にさらに意識され、深められ、ますます豊かになっていくのです。その結果が、弟子たちの派遣へとつながっていきます。つまり、イエスのなさった活動を、業を「世の終わりまで」続けていくように、ご自分の業がいつまでも続けられていくことを望まれたのです。これまた、イエスのやさしであり、人間の「あわれさ」を思うがゆえのイエスの心の反応です。
わたしたち一人ひとりも、その働き人として招かれています。仮に献身的に奉仕できなくても祈ることはできます。召命のために祈ることは、立派な宣教活動です。イエスのわたしたちに示された愛の業の継承者です。
この自覚を携えていつも一歩前に進みましょう。
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