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復活節第2主日:主の復活が「わたし」の平安、希望の要に繋がっているか

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復活節第2主日(A年)の説教=ヨハネ20・19~31

2023年4月16日

誰でも悩みと不安を抱えながら生きている

「七転び八起き」という言葉があります。その意味を尋ねてみますと、「何度失敗してもくじけず、立ち上がって努力すること。転じて、人生の浮き沈みの激しいことのたとえとして用いることもある。」という説明があります。(goo辞書より)

わたしたちはこの世に生を受けて以来、その多くの人が、否、すべての人が幸せな、穏やかな、不安のない日々を求めて生活しています。でも、現実は、悩みとか不安のない人生を送れている人が、果たして何人いることでしょう。これまた、すべての人が、苦しみに打ちひしがれ、つらい思いをしながらの毎日を体験しているのではないでしょうか。「毎日」ではなくても、きつい思いをしている体験が、気持ちとしては圧倒的に多いような感じがします。

苦しい時、頼りになるのは先輩や友人など

その中身は、人によってさまざまでしょう。仕事上のトラブル、夫婦間のいざこざ、失恋体験、思うようにいかない進学など、実にいろいろです。また、信者のみなにとっても、辛い、苦しいときに祈ろうと思ってイエスの前にぬかずいたとしても、逆に何か落ち着かなくて、そわそわしてしまうことってよくあることです。このような時、どうしたらよいか途方に暮れてしまいます。この状態が長く続きますと、それこそ睡眠不足に陥り、心身の病に発展しかねません。そのような体験をした人は現におります。

このようなときに頼みとなるのが、やはりわたしにとっては「人」なのです。いつの間にか、信頼できる先輩、同僚等、忌憚なく交わりを持てる人を求めています。そして「我」を取り戻すのです。そして、これにより、自らをワンステージアップできます。

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とんでもない苦境に立たされると、どうしても癒されている感覚を味わいたいのです。そうでもないと、前に進めないほどの脱力感が大きいのです。「信仰薄き者よ」と言われそうですが、でも、わたしの今の現実です。みなさんにとってはいかがでしょうか。

弟子たちは落ち込み鍵をかけて籠っていた

今日の福音の弟子たちも同じく、閉じこもってしまうほどの落ち込みようでした。自分たちの指導者であり、それゆえに頼みとしてきたイエスがいなくなったのです。しかも、十字架の刑に処せられたのでした。それも、弟子たちは師を守り抜こうともせず、その現場から逃げてきたのです。結局は師を裏切ってしまったのでした。それだけにどうしてよいか途方に暮れていたのです。

師を捨てて逃げてきた自分たち、自らの卑怯な心の体験の後味の悪さは、その時、すべての弟子たちが体験していたのではないでしょうか。おまけに、自分たちの弱さ無力さ、同時に、当時の社会で歴然と生きていた「弱肉強食」の原理の恐ろしさも、味わう羽目になったのでした。あれやこれやで、いまや弟子達は、二進も三進もいかない状態に陥っていたのです。

そこへイエスが現れて発した”ことば”とは

こうして、自らを含めた地上の出来事の現状に一喜一憂していた彼らに、大きな希望を与え、それこそ癒しの感覚を覚えさせてくれたのが、やはりイエスでした。イエスが最初に言われたことばは、「あなたがたに平和があるように」ということばでした。イエスは弟子たちの心を、さも見抜いたかのような最高の「安心」を与える言葉だったのです。というのは、弟子たちの弱さからくるイエスを置き去りにしての逃避、裏切りで、さいなまれていた彼らの心に、一条の光が差し込んだのでした。イエスのやさしさです。弟子たちのうしろめたさを氷解させるに十分なものでした。

しかし、それ以上のたくましいメッセージが込められていたのです。それは、主の「復活」は、この世のどんな悪意でも、それが、どんなにひどい、悪質な根深いものであったとしても、イエスの死が、そうしたものに押し潰されるようなものではないということを実証してくれているのです。だからこそ、弟子たちの心から一切の不安と恐れが取り払われたのです。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」と。(ヨハネの黙示1章17~18節)

弟子たちを癒した「あなたがたに平和…」

復活されたイエスから確かな希望、平安が与えられます。わたしたちの日常の中で、絶望のどん底に追いやられるようなことがあっても、復活したイエスを見つめること、イエスに思いを馳せることができるときに、揺らぐことのない自分を保ち、また、平安をいただくことができるでしょう。そうなんですよと、今日の福音は叫んでいるように思えます。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とイエスがトマスに言われた言葉です。これはまさに、今に生きているわたしたち一人ひとりにおっしゃっている言葉でしょう。だから、頼るのはイエスしかいないでしょう。そうなんですよ、と強くわたしたちに迫っているように感じます。

癒されれば、どん底からの立ち直りも可能

それゆえに、七回転んだとしても最後にはきちんと立ち、自らを律していける生き方を保てます。その時に大事なのは、感謝の気持ちをイエスに伝えることでしょう。トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と答えたトマスの心境はどうだったのでしょうか。ここを黙想してみることも大事かなと思っています。わたしたち一人ひとりの感じ方、答えは異なるかもしれませんが、・・。それまでのイエスとトマスのかかわってきた中身を見てみることは、大事になるかもしれませんね。

主の復活は、イエスが温かくわたしたちをゆるし、つつんでいくやさしさがあふれた歴史的な出来事であるのです。

このことが、今のわたしたちの平安、希望につながっているでしょうか。

 

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