年間第32主日(C年)の聖書=ルカ20・27~38
2022年11月6日
この世には、人間が生きている数だけの「人生」があります。言うまでもなく、一人ひとりは違う存在だからです。ある人に似ている生き方はあっても、まったく同じということはないでしょう。だから面白いし、飽きないし、楽しいのです。だから、変化し成長していく期待が持てるし、さらなる上に向かって、さらなる充実を追求していくことができます。前に進むだけです。
月一回発行、500号重ねた地域情報誌の話から
一人ひとりが違うとはいっても、同じ目的に向かって共同して歩んで行くことはできます。これが人間ならではの「生き方」でもあります。助け合っていくその姿に、日本人独特の「もやい」の心を感じるのです。いわゆる、お互いの隣人の「つながり」のありがたさ、大切さが身に沁みるかかわりではないでしょうか。
「かかわり」を大切にしてきた身近な情報誌があります。それは南さつま市加世田武田の貝掛自治会の話です。自治会が月一度発行する集落広報誌「新風」が創刊30周年を迎え、10月で500号に達したという話題です。(南日本新聞2022年11月1日朝刊)
1992年8月の創刊号においては、「ふるさと貝掛はみんな明るく力を出し合って働いていた。新しい知恵とやる気でますます発展させるため必要な情報を提供していく」と新風と名付けた理由を説明しています。その中身は、いたって身近な情報に満ちています。例えば、資源ごみ収集日、自治会費集金日、住民への連絡事項、集落の道路・河川の愛護作業、集落活動の様子、近所の花の開花情報などです。ごくごく日常的な情報ばかりです。
地域住民の反応はと言いますと、「地域のことがよくわかり生活にも役に立つ。続けてほしい」と口をそろえて言われます。元自治会長の狩集尚志さん(91歳)は「見返すと編集の苦労が伝わるが、必要とされるから500号までつないできた。集落の輪を保ち活性化になっている」と話されています。
欲は必要だが、損得勘定だけでは長続きしない
歴史がいかに長く続き進化していっても、人の中にある「自己中心欲」「自己満足欲」等の思いが、消え去ることはありませんよね。また、無くなってはいけないものなんでしょう。一人ひとりの成長のために、・・。「欲」があるから望みをもって、人生を前に進めることができるからです。
とはいっても、「損得」や「利益」の勘定だけですべてを判断しているのだとすれば、その「欲」も、純粋に人生を前に押し出すエネルギーにはなりえないでしょう。わが身が危うくなると判断し、イエスとのかかわりが過去にも現在もないと否定したペトロと同じになってしまいます。また、同じような人がいます。ユダです。彼も銀貨30枚で民の長老たちにイエスを売り飛ばしてしまったのです。
しかし、その後の生き方が違っていました。ペトロは外に出て激しく泣きました。心からの回心の姿がそこにあります。一方でユダは、自らの命を絶ちます。彼も自らの行いを大いに悔いての結果だったのでしょうが、・・。
平凡、穏やかを願うことは信仰に矛盾しないが
現代に生きるわたしたちも、金銭にあこがれをもたない人はいないでしょう。また、愛する人と一緒に、平凡でもいい穏やかな人生を送りたいと思う人もいます。これらの生き方は、万人が求めるまともな生き方です。さらには、信仰に反すること、また、矛盾することでもありません。うまく共存させているのが今のわたしたちであるとはいえませんか。何ら信仰に抵触するものでもなく、しかし、それはもっと大きく深く神との出会いに向けられた動き、力となっていくものであるといえるものです。その動きの中に、新しいエネルギーが宿っていると言えるでしょう。その力は、わたしたちを絶えず前に推し進めていこうとする力だからです。逞しさがあります。
多くの場合、このレベルで、宣教活動が終わってしまっているのではないかと思うのですが、・・。ないしは、「ここまでがわたしたち信徒にできる宣教の限界です」と思ってしまっているのではないかと、・・。なかなかこの先に突き進めないでいます。躍動的な動きを宿したエネルギーを保持していても、表に見える現象に引きずられてしまうのです。つまり、自分を楽しませているこの現実に留まってしまい、前に進む動きがなくなってしまうのです。実は、ここから本当の戦いが始まるというのに、諦めてっしまっています。
信仰は、絶えず前に進む動きを止めないこと
しかし、本当はそのエネルギーが持っている本来の力に気づいているのに、気づかないふりをして行動してはいませんか、と慰問自答してみるのも一つの訓練の機会となっていくのではないでしょうか。逞しさはいつもあるのですから。眼前に展開されている出来事、魅力的に見える物事との妥協ではなく、大切なものはただ一つであるという信念にも気づいているのに、ずるずると引きずり込まれてしまっているのが、いつもの「わたし」なのです。
常日頃から、こうした「思い」との闘いが求められます。それが面倒なので安易な道「妥協」という選択をしてしまうのです。そうではないでしょうか。そして、そうすることに慣れていくのです。見えない「悪の力」が勝ってしまうのです。それがまた心地よいものなのです。あの「逞しい力」は、いつもその「闘い」へと促しているのに、その働きに気づかないほどに、外面に魅力的な物事の虜になってしまいます。
あのふるさと広報誌の編集する担当者が引き継がれていったように、そして、そこから新たな継続する力をいただいたように、わたしたちの信仰も、絶えず前に進む動きを止めないことです。そこから、朽ちないものを選び、会得する道を切り開いて行く新たな力をさらにいただくことができるでしょう。
わたしたちの信仰は、日々闘いの戦場に立っているのです。
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