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年間第23主日:わたしに神がして下さった心地よい出来事に目覚めたい

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年間第23主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第23主日(C年)の説教=ルカ14・25~33

2022年9月4日

世界の人口は、約79億人です。1分に156人、1日で22万人、1年で8千万人、増えています。世界中で、1年に6千万人が亡くなり、1億4千万人が産まれます。(世銀、国連、米国勢調査局等から推計)

難問山積、疑心暗鬼になりがちな世情だが

貧富の拡大、温暖化など問題が山積です。表土と森が失われ、農地が不足しています。水と食料も、病院や学校も不足しています。人の生活が、太陽と地球からの恵みを、超えそうです。戦争なんかしている場合ではありません!独り占めでなく、分かち合って、共に生きなくては。 因みに、日本の人口は約1億2千万人です。

これだけの人々が精一杯生きようとして日々努力しています。安全に、安心して平和の裡に普通の営みができればと願いつつ。何も特別なことを求めているわけでもないのに、いつの世も強い国、人が、世を、秩序を支配しようとします。その結果、特に弱い立場にある国、人は皆が疑心暗鬼のうちに生きらざるを得なくなっていきます。

こうした状況下で真の人間の生き方、営み、つまり、人同士の真の交わりができるのでしょうか。人間は他者あっての「自分存在」であり、「自分」あっての他者存在の関係だからです。そして、より人間らしく、豊かな「人となり」が育っていきます。そして、真の親子、先輩後輩、教師と教え子等の温かい人間関係が広がっていくのではないですか。

『若い目特集』で見た中学生の投稿に着目

先日の南日本新聞(2022年8月29日朝刊)の「ひろば『若い目特集』」の欄に中学生の投稿が載っていました。付けられたその表題は「このクラスが一番」というものです。以下に抜粋引用してみます。

「中学校入学で、クラス分けを初めて体験しました。どんな人と一緒のクラスになるのかワクワクドキドキでした。でも、発表を見たとき、残念な感じがしました。なぜなら、小学校のときに仲良しだった友達2人と別々になったからです。すごく悲しくて、一緒のクラスになれた2人がうらやましいと感じました。・・・時間がたつにつれて、今のクラスがいいと思うようになりました。・・・毎日みんなが笑っているところ、仲間思いのところ、それぞれが自分らしくいるところなど、良いところがたくさんあるからです。このクラスにしかない魅力を、100個以上見つけたいです。そして、このクラスでよかったとたくさんの人に伝えたいです」(中央中1年 塚田 華歩、屋久島町)

塚田華歩さんの発言の中に、人として、心がけていたい大事な内容が含まれているような気がしています。

子どもたちが大事にしている「友だち関係」

人の育ち、そして、その評価は年を重ねていくたびに豊かになっていきます。それが普通なのだと思います。その基礎になっていくのが、幼稚園期までの親子の関りの内容に負うところが大きいのではないかと思います。わたし自身、幼稚園の仕事に関わっていく中であらためて感じているところです。

はじめて幼稚園に登園してくる子どもたちの姿はさまざまです。当然のことながら、それまでのご家庭での様子はどうでしたか、と尋ねることはありませんが、子どもたちの現実の姿を受けとめてその育ちに奉仕していきます。

その中で大事にしていることの一つに「友だち関係」があります。家庭内では体験できなかった多数の同年齢同士の交わりです。一般的には、子どもたちは好きなことは好き、嫌なことは嫌とはっきりと言います。中にはそう言い切れない子どももいますが、・・。でも大事なことは周りにいる仲間への「関心度」です。

友だち同士の関係の良さを「誇り」に

上に引用した塚田華歩さんの発言内容は、友だちの一人ひとりに関心を示し、友だち同士の関係のよさを「誇り」にしています。そのお陰で、自分自身の存在をも喜んでいるように見えます。そのクラスの姿を自慢しているのも、彼女の育ちのすばらしさを物語っているように見えるのです。その中にいる一人としての自分に、自信を持っているのではないでしょうか。これって、心がけていたいことです。「他者あっての自分」であるということです。同時に、他者のために何かができる「自分」でもあるということでしょう。それが「真」なる関係であればそれだけ、価値ある人生を送ることにつながっていくのではないでしょうか。

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イエスの言葉は中学生とはまるで正反対?

今日のイエスは、かなりきつい言葉を言われます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」と。しかも、ご自分が選任した弟子たちに対してではなく、イエスについてきた一般民衆に向けての言葉なのです。いわゆる不特定多数の人々に向けられたものでした。

しかし、この時のイエスと民衆との関係は、イエスが望んでいたあり方とはほど遠い状況でした。イエスのうわさが広がり、その評判が高まってくるにつれ、好奇心から一度だけでも会ってみたい、見てみたいという思いから集まってきたのです。中には、ローマからの解放を願ってそのリーダーとしての役をイエスに担って欲しいと企んでいる人たち、貧しさや病苦からのいやしを願ってきた人たち、とあまりにも現世的な願望に取りつかれてしまっていたのです。

最高の価値は天の父に…⇦イエスの教え

イエスを大切にする心に目覚めていなかったのです。つまり、わたしたちにとって生きるために大切なものはたくさんあります。その中で、イエスは最高の価値を天のお父におくのです。これがイエスの心でした。どうしてもわたしたちは人間的な愛情にひかれてしまいます。

イエスとの関係を「真」なるものにしたければ、しっかりと神を見つめる目と心が必要とされます。そのためのたたかいに日々挑戦していきましょう。

塚田華歩さんが、友が持っている「いいところ」を絶えず眺めつつ自己肯定をして、よいかかわりを押し進めていったように生きるその先に、神は手招きして「わたし」を待っていないでしょうか。

これまで「わたし」に、神がしてくださった心地よい出来事を眺めつつ、神に目をしっかりと向け続けさせてほしいです。祈りましょう、願いましょう。

 

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