年間第2主日(C年)の説教=ヨハネ2・1~11
2022年1月16日
77歳、現役で頑張る保育士さんの話題から
「77歳・現役保育士、園児お出迎え」。見出しの年齢に目が行き、そのまま報道の内容を読んでいました。その主は、枕崎市中央町の「立神 海の風こども園」に、現役の保育士として勤務している鮫島智代さん(77歳)です。在籍年数は通算46年になります。長いだけに、親、子、孫の三代かかわった教え子さんもいらっしゃるとか。(南日本新聞2022年1月11日朝刊)
さすがに若いころと同じようにはいきません。2年程前から体力が必要とされる昼間の勤務から退き、午前7時から9時までの勤務を担当しています。午前6時半に出勤。鍵を開けたり掃除をしたりして、午前7時台から登園する園児を迎えます。「保護者が安心して働きに出られるよう心がけています」と語っています。子どもたちには、体験することを大事にしてほしいとの願いから、落ち葉の季節には感触を楽しんでもらおうと敢えて掃かずに残すようにしているとのこと。また、親になった教え子との再会も喜びのようです。鮫島さんは言います。「子どもから元気をもらって、この年までやってこられた。役に立てるうちは頑張りたい」と。
「役に立てるうちは頑張りたい」と自然体
全ての人は、分け隔てなく平等に「時」をいただいています。とはいいましても、その「時」の持つ意味合いが、人によって異なることはあるでしょう。ゆっくりとしたい時なのか、集中したい時なのか、はたまた、ボーッとしているだけなのか、人によって様々です。
先の鮫島さんは「役に立てるうち」という「時」を使って奉仕されているのです。「その気になる」ことが何と言っても尊いのではないでしょうか。何も特別なことを計画しているわけでもなく、普段に生きている自然の流れの中で発見し、それに気づいて動き出しているのだといえるでしょう。
しかし、「人手不足の中、冬はまだ暗い早朝勤務を担ってもらいありがたい」と同園の酒匂明彦園長(63歳)に感謝され、喜ばれているのです。もちろん子どもたちも同じ思いでしょう。鮫島さんにしてみれば、本人にとってはごく普通の、当たり前と思ってやっている奉仕かもしれませんが、それが、周りの人々には大きな喜び、励まし、力づけになっているのです。
わたしたちの日常は、お互いそんなに違いがあるものでもないでしょう。同時に、人に高い評価をいただくような、そして、目立ったうごきをしているわけでもないように思います。強いて言うとすれば、「取るに足らない、ささいなこと」の連続ということもできるでしょうか。でも、それが大事なことなんですね。
今日の福音書では、ガリラヤのカナの町の婚宴の席にイエスと母が招かれ、そこで起きたエピソードについてヨハネが記しています。
酒が尽きたことをマリアはなぜ訴えたのか
「救いの業」という使命を果たすために、天からの声に強められたイエスが、より効果的にその使命を果たすために、人間生活とかかわりをどのように持ち、恵みを与えていくのかが明らかに示されているといえます。
イエスはわたしたちと同じ人間の姿を取られました。つまり、もろく傷つきやすい人間、わたしたちです。そして、その出発点は親子関係でありましょう。人はこれを避けることはできないし、人としてのかかわりの原点です。出発点です。同時にそこは、すべての人間にとって、一人ひとりの生活現場でもあります。生きる土台が培われ、そして、より広い人との繋がりに発展していく始まりの時です。
カナの町での結婚という祝いの席で、現代でもそうですが、お祝いの席には、なくてはならない酒がなくなったのでした。それにいち早く気付いたのが母マリアでした。母心からでしょうか、酒がなくなることは、主催者である花婿が恥をかくことになります。そこで、母は、そっとイエスにお願いします。「ぶどう酒がなくなりました」と。同時に召使いに、イエスの言葉に従うように告げ、頼むのです。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と。
神に信頼するマリア、それに答えるイエス
マリアはひたすら信じて待つ方です。神に信頼するマリアに対して神は、目に見える特別な身振り言葉もなく、水をブドー酒に変えられたのです。水がブドー酒に変えられたその瞬間についても何も書かれていません。いつのまにか、おいしいブドー酒になっていたのです。イエスも沈黙したままです。人びとの前には、ただおいしいブドー酒が運ばれてきたのです。事情を何も知らない世話役の証言は、奇跡の現実性をより高めています。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
神は大事なことも些細なことも見逃さない
これからもわかるように、神のわたしたち人間へのなさり方は、日常のささいなことに対しても、人が何も知らないまま陥ってしまった危機に、そっとやってきて救ってくれるのだということです。つまり、どんな小さな、取るに足りないことでも、願い、ゆだねることができることが大事なのだということでしょう。このようなことって、たくさんあるのではないでしょうか。そして、無意識のうちに実践しているのではないでしょうか。このことをさらに「わたし」の実生活の中で味わってみましょう。やってみましょう。これまでもたくさんその機会はあったはずですが、ひょっとして、気に留まっていないのでは・・。
その「時」をもっと意識してみるのも、わたしたち一人ひとりが人として、信仰者として、その任にあるものとして変化(成長)していく大きな、それでいてささいな動きです。
神はその「時」を見逃すことはないのです。日常の中における、そういう緊迫した「時」も大事にしていきたいです。
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