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年間第18主日:「つぶやき」「不平」の元は、実は自分自身の中にある

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年間第18主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第18主日(B年)の説教=ヨハネ6・24~35

2021年8月1日

「平和の祭典」に寄せる各人各様の想いから

「平和の祭典試練」「祝祭感なき幕開け」「問い直される意義」「運営現場に負担」などという見出し活字が大きく踊っています。第32回夏季オリンピック東京大会が7月23日夜、国立競技場で始まりました。それも、開催都市、東京が緊急事態宣言下にある中での幕開けでした。(南日本新聞2021年7月24日朝刊) 大会の招致決定から8年。その、道のりは長く険しいものでした。幾多のトラブルと前例のない一年延期を経て開催されたのです。

「五輪はモンスター。きっと、予想もしないようなことが起きる」。こう予告した古株の日本オリンピック委員会(JOC)関係者がいました。その後の歩みは、言葉通りの「まさか」の連続でした。

新国立競技場の建設計画の白紙撤回に始まった混乱(2015年)は、大会エンブレムの再選定、開催経費の膨張、マラソン会場の札幌移転、そしてコロナによる史上初の延期と続きました。さらに、東京都知事だった猪瀬直樹氏、JOC会長だった竹田恒和氏、大会組織委員長を務めた森喜朗氏ら招致や五輪の「顔」だった人物はスキャンダルで表舞台から姿を消さざるを得なくなったのでした。

不平は現実が期待とずれていると感じた時に

1964年の東京大会は戦後の荒廃からの復興と、国際社会への復帰という明確な目的がありました。しかし、今回の自国開催の五輪は、強い批判の対象となっています。一つは、57年前とは違って、社会の変化に伴い、人々の価値観が多様化し、会員制交流サイト(SNS) で誰もが意見を発信できるようになり、その批判の声は瞬く間に大きなうねりとなって拡散していったのです。また、五輪が崇高な理念とはかけ離れた巨大イベントと化してしまったことです。さらに、それに追い打ちをかけたのが新型コロナウイルス感染の拡大でした。コロナ禍にあって、社会や経済が疲弊し、やり場のない人々の不満や怒りは、その理念とは矛盾する肥大化、商業化を抱える五輪に向かって、開催意義を根本から問い直すよう迫っている、と言えるでしょうか。

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わたしたち人間の中に不平が起こるのは、目の前の現実が自分の思い描く像とずれている時ではないでしょうか。そのずれが忍耐の限界を越えてしまえば、「不平」が頭をもたげます。

イエスとユダヤ人の会話はかみ合っていない

「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め(た)」。(ヨハネ6章41節) これは来週の福音の冒頭にあります。この「つぶやき」の前兆をきょうの福音の中に感じるのです。

それは、何とも、イエスとユダヤ人との対話がかみ合っていないということです。そう感じませんか。それぞれの中で思っている内容が大いに異なっているからでしょう。それぞれが意図していることに隔たりがあるように見えます。会話のキャッチボールがうまく行われていないように感じます。ちょっと長い引用になりますが、次の個所を見てみましょう。

「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』 そこで、彼らは言った。『それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。』すると、イエスは言われた。『はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。』そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」。(ヨハネ6・28~35)

この会話の中で、お互いの言葉にずれを感じませんか。同じ言葉を用いても意図している中味に違いがあります。例えば、引用個所の前に出てくる(26節)「捜している」ということは、群衆は相も変わらず、イエスが指摘するようにパンを食べて満腹したからなのです。あくまでも物質を提供してくれるイエスであり、イエスを神の子として捜し求めたのではないのです。また、「パン」にしても胃袋を満たすパンであり、神の言葉として説くイエスの思いとはかけ離れています。

胃袋を満たすパン vs 朽ちることのないパン

また、これらの会話の中で、イエスの語りは、その言葉の中身を濃くしていくのに反し、群衆のそれは自分たちの理解のうちにとどまり続けるのです。したがって、話せば話すほど両者の隔たりは広がるばかりです。自ずと彼らの「つぶやき」「不平」は増幅し、ますます辛辣になっていきます。挙句の果ては、イエスのもとを去っていく弟子たちが現れてきます。

にもかかわらず、イエスはご自分の発言を取り消したり、変更したりはなさいません。去っていきたければどうぞという感じです。

とどのつまり、今日のわたしたちに求められていることも、「朽ちることのないパン」へのわたしたちの受け止めている中味はどんなものですか、ということのようです。神を信じていることへのわたしたちの「つぶやき」「不平」の大きさはどうですか。信仰の中心にある「朽ちないパン」の重要さを今一度、振り返ってみましょう。

 

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