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年間第5主日:イエスの「寄り添う」とは、人々の苦しみを取り除くこと

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年間第5主日(B年)の説教=マルコ1.29~39

2015年2月8日

message-eyecatch2日本国内外において悲惨な事件、出来事が起こり続けています。それも命に係わる出来事です。実に悲しいですね。あの「悲惨な津波事件」が東日本に発生して以来、「寄り添う」生き方が大事であるということを、多くの方が実感し、実践してきた昨今です。

さて、その「寄り添う」ということはどんなことかわかりません、という方がわたしの身近にいらっしゃいました。突き詰めて考えますと、分かっていそうで分かっていないのかなとも感じます。しかし、とてもあたたかい雰囲気を感じさせる言葉です。さらに、すべてをつつみこんでくれそうな、すべてを任せられる安堵感をも感じさせてくれます。

因みに、国語辞典を調べてみますと、「寄り添う」とは「相手の体に触れんばかりに近くによる」(新明解国語辞典・三省堂)とあり、他の辞典を見ましても肉体的な接近に関する説明が載せられています。心情的な、心の状態のありようについては触れられていません。

今日の福音朗読においては、イエスさまはカファルナウムでいろいろな病気にかかっているたくさんの人々を癒し、悪霊を追い出したとあります。当時は、罪の結果であるとされていた病気や貧しさにあった人々と向き合ったのでした。ここにイエスさま流の「寄り添う」姿があるといえます。

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その結果、人々の抱えている苦しみが取り除かれていったのでした。人間が持つ弱さ、はかなさ、不条理といった現実の姿に、神は寄り添ってくださるのです、というメッセージを、癒しの奇跡の業をもって示されたのです。

私たちの社会は、かつては、人間の悲しくみじめな姿を直視し、その上に立った生き方をさぐって来たはずです。それが今では、それらがいけないこと、悪いことであるかのような印象さえ抱かせます。したがって、そのような位置にある人は無視され、疎外され、表面上の華やかさ、裕福さだけが珍重され、重宝されていきます。どんなに物が豊かになろうが、変わることのない人間のもろさ、弱さ、危なさはいつまでも人間のものであることを知らされます。

福音に登場した多くの病人は、今のわたしたちを代表しています。どんなに医学が発展しようが病人はなくなりません。病を覆い隠すことのできるようなものはないのです。やはり、以前のように現実の人間のはかなさを直視していくことにこそ、そして、その上で祈ることにこそ神との真の出会いを感じ取ることができるようになるのでしょうか。そのためにも、他者に「寄り添う」ことを学びたいものです。

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