年間第31主日(A年)の説教=マタイ23.1~12
2014年11月2日
幸いなことに(?)あまり耳にしなくなりましたが、「三無い運動」「四無い運動」がよく言われた時代がありました。「ちらさない、こわさない、よごさない」という標語は、以前はよく目にしたことばです。この標語を見てよく思ったものです。「○○した方がいい」という前向きな、積極的な行動は、この表現からは何も出てきません。だから「指示待ち症候群」が出現するのだと、・・。
わたしたちの生活環境は、罰則、禁止ことば等に囲まれていませんでしょうか。「騒がないで、大きい声を出さないで、走らないで、・・・」「○○が終わらないことにはおやつなし」、その他たくさんの否定禁止ことばが連発しています。
特に教育の現場では目立つのではないでしょうか。もっと、積極的な表現と具体的な中身を提示してあげる必要があるように思います。これだけ、国際的な交わりが通常化しますと、生活観とか、考え方の違いからくる誤解が問題化しそうです。現に、その真っ只中にいらっしゃる方がおられるかもしれませんね。
イスラエルでも、イエスさまの時代、「・・すること」よりも「・・しないこと」の禁止令が多数であったようです。東洋圏の通常なのでしょうか。
人の社会では、人が集まるところには必ず指導者が誕生します。そして、その人たちに託された権威に基づいて、法令が定められていきます。その権威は相対的であり、一時的です。人間の世界に「絶対」はあり得ないからです。
また、権威と指導者は注意していないと、堕落していきます。本当は「奉仕する」ための権威であるのに、その事を忘れ、人びとの上に立つだけのために、意欲を燃やすのです。人の上に立つことは魅力的です。自分の思い通りに人びとを動かせることは、精神的な快感です。誰の中にもこの思いは潜在的に生きています。
イエスさまは、律法学者やファリサイ派の人びとの中に、ゆがんだ権威を見、誤りを指摘なさいます。「そのおこないはすべて、人に見せるためのものである」と。彼らの中にある宗教的な怠慢、世俗性は神との関係構築のためにはかえって邪魔です。
神に向かう権威は人にも向かうのです。否、人に向かうことによって、その謙虚さ、純粋さ、ひたむきさが高められ、豊かになっていきます。
人間社会の中の権威は、どこか傲慢的で人を見下し、打算的でごまかしが多いような気がします。しかし、どんな権威でも、正しいことをいっている限り、その権威を否定しないのがイエスさまです。「彼らの言うことはすべて実行し、また守りなさい」です。
しかし、彼らの行いを真似てはいけないといわれます。ここに、現実の辛さがあります。闘いがあります。
わたしたちの権威は、何を根拠にして成り立っているのでしょうか。
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