年間第22主日(A年)の説教=マタイ16.21~27
2014年8月31日
人は苦しみに陥るとそれがいつまで続くのかと途方に暮れることがあります。その苦しさが自分の中でわかっているからです。意識されているからです。今年の夏は、異常気象の二乗の天候が続きました。スカッとした真夏の太陽が、不思議なことになつかしくさえありました。日本中のいたるところで似たような災害、事故が続きました。当事者でない人にしてみますと、お祈りしましょうという「祈りの輪」を広げることが最大の支援なんでしょうか、いつもの日常に戻ってほしいですね。
身近なところで発生する出来事であれば、それだけ心身に響きます。だから、「そんなことが起こりませんように」と願い、訴えるのです。もっといいますと、ひょっとすれば、乗り越えることができないほどのショッキングな、又は、屈辱的な出来事になるかもしれないのです。願わくは、そのような目にあいたくありません。正直なわたしたち人間の気持ちではないでしょうか。
今日の福音書では、またもや、ペトロが発言し、訴えます。「主よ、そのようなことがおこりませんように」と。ペトロ以下弟子たちにとっては、イエスさまが十字架につけられることなど、寝耳に水です。それは、弟子たちのみならず、当時のユダヤ人にとっても屈辱的な出来事なのです。ユダヤ人は、人間の苦しみを取り除いてくれる神の力にあこがれていました。
また、ギリシャ人(異邦人)は崇高な真・善・美にあこがれていたのです。だって、日常は俗っぽく、平凡で邪悪だからです。これらの、彼らの望みをかなえてくれる力を、イエスさまの中に期待していたのです。だから、パウロはいいます。「十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にとってはつまずきであり、異邦人にとっては愚かなのです」と(一コリント1章23節)。
あくまでも、人間の常識的な世界でしかイエスさまを見ていない結果が、パウロのことばの中に表現されています。ペトロも同じでした。それに対してイエスさまはすぐさま返事なさいます。「サタン、引き下がれ。あなたは、わたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人のことを思っている」。天の父の思いを受け入れて「あなたはメシアです」と告白したペトロは祝福してもらいましたが、人の思いに捕らわれたペトロは「サタン」呼ばわりされます。
こうした体験は「人間の世界」でもあります。上司の思いを汲みとった言動に対しては「おほめのことば」または、プラスαがありますが、逆なでするような言動に対しては、・・・。
その中身は、両者の「価値観」の違いからくる結果です。今日の福音では、人情的なレベルを超えて、愛のレベルにおける価値観の違いです。とはいっても、弟子たちみながわかったかといえば、何も分からなかったというほうが正しいのではないかと思います。現代に生きる今のわたしたちでさえ、同じようにわかっていないのかなと思います。その前に、この福音の中身を人びとに「語っている」でしょうか。
いつも申しあげます。「違い」はわたしたちが豊かになっていくきっかけです。だからこそ、その違いに気付きたいです。
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