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年間第26主日:信仰者の「良心」は、素朴な「業」の繰り返しの中に

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年間第26主日(A年)の説教

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第26主日(A年)の説教=マタイ21・28~32

2020年9月27日

自らの小学校時代のことを思い出します。わたしの記憶では、今みたいな夏休みのたくさんの「宿題」というものはなかったように思うのです。ただ、「夏休みの友」と「絵日記」を書くようにということだけだったような、‥? 今でいう「自由研究」で、よく植物や動物の観察をした記憶があります。普段はあまり気にしない木の葉っぱの形とかトンボ、バッタの観察などでした。

小学生時代の夏休みを思い出してみると

空中を飛んでいるトンボなどは、日頃まじまじと眺めることもできませんので、つかまえてしまいます。動かないと観察しやすくなるのは当たり前。子どもは眼がいいので、うってつけの学習だと思います。眼だけではなく、聴覚も触覚も、いわゆる五感が一番発達し、敏感な時期でもあるわけです。いわゆる、人として今後生活してく上で必要な品性というか、感性が育っていくのです。

人としての身分に備わっていくものの一つに、「良心の声」もあります。

つまり、子どもの教育を考えるとき、生まれてしばらくは、肉体的な成長だけに心が奪われ、頭脳のほうは少し知恵がつきはじめてから考えようという流れが、日本における一般的な「育児観」「子育て観」なのではないでしょうか。

真・善・美の感性は幼少から育ち始める

人間として最も大切なもの、精神的なものや知能的なものを含めた頭脳の成長も、肉体的な成長とともに考えていくべき課題であると思うのです。真・善・美の感性は、この時期に育ち始めます。

人間をつくるという側面を忘れて、英才養育・天才教育(知識の蓄積)に走りすぎてしまうことは、子どもの成長過程の持ち味を無視した、さらには、その子の人生を、タレントを開花させる方向にではなく、その子育てが無駄な努力、徒労で終わってしい、悔いと苦しみが残るのではないでしょうか。

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今日の福音書には兄弟が登場します。同じ親の子どもたちです。「ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。」この例えは、祭司長や長老たちへの話です。

誰でも思い当たる二人の息子各々の反応

二人の息子たちの反応を見て、思い当たるなと感じられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。わたし自身、よくあったな、こういうことが、と納得しています。つまり、「はい」と言っといて、結局、最終的には「いいえ」の態度を取ってしまったなあ、と。弟の態度と同じです。親によく思われたいとかの気持ちで「はい」ということは全くないのですが、束縛されたくないという気持ちが勝ってしまうのです。また、自分がしたいこと、こうありたいと思うことが優先されてしまうのです。

そういいながらも、兄の気持ちの動きもわからなくはありません。これまた、だれもが体験してきた気持ちの揺れではないでしょうか。自分の感情が、やりたいと思う気持ちが絶大だったとしても、その奥では、「それでいいのか?」とささやきかける小さいながらも、強い、はっきりとした「声」が叫びをあげているのです。いわゆる、人間としての道に沿っていないときに、どこか間違っているのではないかという感覚が、突如、頭をもたげてくるものです。これを「良心の働き」「声」といっていいのではないでしょうか。

欲求で動いている時は良心が鈍っている

何か良くないことをしでかしたと自覚しているときにわき起こる心の呵責などは、まさしく「良心の働き」といえます。だれにでもある働きで、これがない人はいません。しかし、その働きが鈍っている人はいるのです。

わたしたちにはいろいろな欲求があります。そして、気づかないうちにそれに幻惑されています。自分の目の前の魅力にどうしても引きずられてしまうのです。その魅力が感覚的なものもあれば、心理的なものもあります。つまり、五感を満足させる衝動的なものであったり、権勢欲、名誉欲、虚栄心であったりします。こうした欲求に動かされている時っていうのは、「良心の声」は当然のごとく小さくなっています。その効力が鈍り、弱くなっています。このことが繰り返されますと、「良心」そのものが弱体化してしまいます。

さらに、その人はいつも不安感を抱き、安心できていない状態が続きます。精神的に落ち着きがなくなると、人間としての姿から遠のき、「楽」のみを追求する生き方に傾いていきやすくなります。同時に「良心」の働きは鈍くなり続けるのです。別の言い方をしますと、これでは「良心」が育っていかないのです。

誕生直後から始まる「良心の育ち」

「良心」の育ちの始まりは、誕生直後のお母さんとの対面から始まっています。それも、「繰り返し」の繰り返しがなされて初めて身についていくものでしょう。人間としての当たり前の基本的な生活習慣、生きていく上での約束事(ルール)です。他人のことも考えられる人間に育ってこそ、充実した人生になるのでは、・・。

イエスは、「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」といわれるだけで、良し悪しについては言及なさいません。そして、結ばれます。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

信仰者としての「良心」の育ちも繰り返しが大事なのでしょう。だから、「信じる心」が根付くために、素朴な、単純な「業」(信心業)の繰り返しを大事にしたいですね。

 

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