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年間第30主日:自ら誰かの隣人になること。これが神を愛している人の証

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第30主日(C年)の説教=ルカ18・9~14

2019年10月27日

自他を厳しく見る傾向は、防衛本能なのか?

わたしたち人間は、自分自身や他人を、厳しい目で眺める習い性を持っているのでしょうか。いつも自分や他人のいたらない点、ほかの人よりも劣っていると思われる点ばかりに神経質な目を向け、クヨクヨと気に病んだり、他人を批判の矢面に立たせてきたといえないでしょうか。今でもそういうことが続いているような気もしないでもありません。これは、人間が生まれつき持っている「防衛本能」だと、かつて聞いたことがあります。みなさんは、いかがお考えでしょうか。

確かに、人間の「批判する力」は大事な能力です。その能力が否定的な方向に作用する時、つまり、自分を、他者を追い込んで、負の状態に追いやったときに、追い込んだ人が、不適応症の様相を呈しはじめることがあります。つまり、無差別に自分や他人の欠点・短所をほじくり出して、その人を否定しなければ気が済まなくなるという行き過ぎを犯してしまうのです。

批判する力は大切だが、行き過ぎに要注意

こうなると、「批判する」ではなく「非難する」だけになってしまいます。このような人は、自らに関して言えば、自分のその現状に満足できない、不満たらたらの日々を重ねてしまいます。その上、不愉快なことばかりに思いを巡らせ、大げさに言えば、世界で一番不幸な「自分」のような気分に陥ってしまうのです。必然的に、毎日が憂鬱の連続で、心身にその暗さ、疲労感が表れます。次第に、このような自分に疲れ果ててしまうのです。この状態が長く続きますと、自分の足もとがぐらついてきます。さらに、皮肉なことに批判精神がいっそう敏感になり、周囲や自分自身に、さらに厳しい目を向けなければおれなくなってしまうのです。ますます辛辣な「非難」と化していきます。

批判が「非難」化すると悪循環に陥る

いわゆる、自らの心の状態が安定せず、むしろ不安を助長させてしまうという結果をきたしてしまいます。心の安定性が失われてきますと、体の健康も損なわれていきます。自分を、他者を批判しはじめると、それだけ自分の気持ちの不安定さをもたらしてしまう悪循環に陥ってしまうのです。非難することなく、批判して前に進みたいです。

因みに、「非難」は「欠点・過失などを責め、とがめること」とあります。(広辞苑第7版)

「批判」は「人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること」と説明されています。

心の安定には責める気持ちを捨て去ること

大事なことは安心すること、安定することです。そのためには、自分の現実をそのまま受け入れることです。その現実とは、自らの外見、限界、生活環境、その場における条件等です。その中で、ベストな選択を行うのです。自分の不足、欠点等を嘆き、責めてきた気持ちを捨てることです。そこから新たな成長が始まるのではないでしょうか。人間としても、信仰者としても。

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きょうのイエスのたとえ話には、ふたりの男が登場し、祈るために神殿にのぼったというお話です。一人はファリサイ派の男、もう一人は徴税人です。

徴税人の祈りはなぜ、嘉されたのか?

ファリサイ派の男は、いつものように祭壇の方へと進み、徴税人は神殿の後ろの方で隠れるようにしてひざまずき祈ります。ファリサイ派の祈りは退けられ、徴税人の祈りは取り上げられ、義とされたと、イエスは話を結びます。

ファリサイ派の男は、感謝の祈りを捧げています。感謝することは、いうまでもなく、とても大事なことです。しかし、彼の祈りには、すっきりとしない、どちらかと言えば、耳障りなひびきを感じさせる祈りになっていないでしょうか。そう感じます。中でも、隠れるようにして神殿の後ろで祈っている徴税人に対してむけられた冷たい、見下げたかのような祈りは、せっかくの感謝の祈りにシミをつけてしまいました。

ファリサイ派の彼には、社会では「落伍者」として冷たい目で見られている人々に対するいたわり、思いやる感性が欠落しているのでしょう。人間の傷つきやすさ、生きることの苦労に共感する感覚に欠けていると言わざるを得ません。ということは、彼自身、自分のことを知っていないということになるでしょう。十分に知り得なかったとしても、自らの能力の不足、人としての弱さ、限界を知っていれば、他の弱者への配慮はできたのではないでしょうか。

ありのままを神の前に差し出したから

一方の徴税人は、自分の汚れきった姿、誇れるものがない自分、今のありのままを、神の前に差し出しています。この心、姿が神に嘉され(よみされ)たのです。神のみ心に適った祈り、叫びとして神のもとに届いたのでした。神の心とは、小さな者の一人ひとりの救いです。このような人たちの中に入り込んで、迷い、疲れ果ててぐったりしている人の労苦と重荷を背負おうとするやさしさです。徴税人の祈りは、こうした神のみ心を揺り動かしたのでした。【826村追記】嘉された⇒良しとされた

祈ることがむずかしい、気が重いと感じている人、ひょっとして兄弟・隣人に対する自分の心のあり方に注目してみてはいかがでしょうか。イエスも、隣人との関係がいかに大切であるのかについてお話になっています。(ルカ10章25節以下参照)

そうです。「自らが隣人になっていく」ことは、神を愛しているしるしになっていくのです。ファリサイ派の男は、徴税人の隣人になることを、その祈りによって拒んでいます。徴税人はそれらを神の手に委ねています。

もっと、気楽に祈りましょう。そうありたいですね。

 

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