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年間第5主日:地の塩、世の光となるためには、罪に汚れた自分を素直に認めることから

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年間第5主日(A年)の説教=マタイ5・13~16

2017年2月5日

2017年説教の年間テーマ「神のふところ」

神のふところは限りなく大きい

「ものしり博士」の先輩からかつて学んだこと

世の中には「ものしり博士」という名の付く人がいるものです。いろんなことをよくぞご存知なのです。わたしの先輩にもそのような人がいました。すごく冷たいものを触ると、なぜ「痛い」のという疑問に、その先輩が答えてくれたことがあります。

冷たさを通り越すと、痛く感じることもある

「手が切れるような冷たさ」とはよくいったものです。確かに強烈に冷たいものを触ると、冷たさではなく「痛さ」を感じてしまいます。一度は経験したことがあるのではないでしょうか。本当は冷たいはずなのに、わたしたちの神経は痛さだけを感じてしまうのです。先輩の説明です。大要次のようなものでした。かなり専門的です。

理由は皮膚にある痛点の数、痛点は冷点より数が多い

わたしたちが触覚として温度や痛みを感じるのは、皮膚にある冷点、痛点という感覚器によるもの。冷点は冷たさ、温点は温かさ、痛点は痛さを感じる器官である。大切なのはこの三種の感覚器の数。一平方センチ当たりでいえば、冷点は10、温点は3、痛点は15と、圧倒的に痛点が多くなっている。この差は、感覚器が刺激を感じとる強さの差。冷点と痛点が同時に働いた場合には、痛いという感覚の方が優先的に伝わる仕組みになっている」というのです。

身体は多くの部位から成り、何一つ無駄なものはない

人間の体って、すごく精巧にできているんだなって思います。痛さを感じることによって、この冷たさは「異常な冷たさである」という危険を感じ取って、その人に教えるというわけです。いわば、一種の保身機能が働いているということですね。

わたしたちの体は、それぞれの部分で構成されています。そして、その部の固有の働きがあるからこそ元気に、楽しい毎日を過ごすことができています。無駄なものは何一つないのです。一つでも本来の働きを失ってしまえば、それこそ味気ない人生と化してしまいます。しかし、元気なうちは、若い時にはそのことに気付かないのです。当たり前だと思っている節があります。

イエスが「あなたがた」と複数で呼びかけているところに注目を

イエスさまのみ言葉にも同じような意味を込めた表現があります。わたしたちがこのように言われたら何と答えるでしょうか。「あなたたちは地の塩である。あなたたちは世の光である」と。「あなたたち」と個別に呼ばれたときに、「わたし」だったらどうしたでしょう。もちろん、イエスさまは「今」でも呼びかけ続けています。

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塩には防腐、味付け、清めなど、その役割は目立たないようでしっかりとしています。この「わたし」が塩のどの役割を果たしうるのでしょうか。それよりも、わたし自身がそのような塩を欲しくなります。

光にしても、世界に向かって光を輝かせる「わたし」になりうるのでしょうか。どんよりと濁った光を放つのが関の山ではないかと思ってしまいます。むしろ世のために役に立つより、邪魔になってしまいかねません。

自分を変えることができるのは、神からの働きかけ

大事なことは、自己卑下することではなく、罪に汚れた人間のありのままの姿をしっかりと見ることでしょう。それは、自分のエゴイズムとそこからくる欲望の強さが、自分と世の闇を深くしている現実に気付くことでしょう。

その上に立って、自分を変えることができるのは、神からの働きかけだけであることに目覚めることではないでしょうか。時間がかかります。だから、わたしたちはいつも「時」をいただいているのです。これまた、神のなせる働きかけです。

わたしたちの成長は、本人すらも気づかないうちに成し遂げられているのです。これこそ、神が関与してくださっている証です。でも、なかなかそのことに気付くことがありません。気づいたら、しっかり大人になっています。

この現実に素直な心で気づいて認める時、神とその業に目覚めるのでしょうか。同時に、「地の塩」「世の光」としての自分の歩みに目覚めていくのでしょうか。これまで以上に、わたしたちの闇を照らし、汚れを清めてくださるように祈り、必死に願い続けましょう。

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