年間第28主日(B年)の説教=マルコ10.17~30

2015年10月11日

イエスの心「今どきの若者は、・・」と嘆きたくなるような年代になったものです。こう思わせる、気にさせるものは一体何なのか。昔は、自分が人生の先輩たちに言われた言葉です。時代の流れとその中身は違ってきているので、自分の青年時代とは必ずしも同じとは言えませんが、・・。

それにしても、「己を信じて、・・」「己に忠実に」等、やたらに「己、自分」という言葉が若い人の口から出てきます。今流に言えば、「私的には」という言葉が気になります。言葉は生きているとはいえ、なんだかピンときません。

現代言葉の乱れ(?)が気になる中で、まともな挨拶、普通に接していることがなんとさわやかに感じるものかと、改めて思ってしまいます。言葉と仕草が揃うと日本式あいさつはきれいですね。

一方で、今日の福音に登場する青年の姿は、事あるたびに人の上げ足を取ってばかりいるファリサイ派とすると、イエスさまにとって気持ちのいい方だったのではないでしょうか。少なくとも二人の間に対立はありません。しかも「永遠の命のために」と言って質問してきます。

若い年齢にしては品のある言動だったのでしょう。時代は違っても、人生の先輩後輩の間には、今の時代と同じような「今どきの若者は・・」の感を抱かせる若者たちがいたというのでしょうか。そのような印象をいだいてしまいます。

イエスさまの青年に対して示した掟は、倫理徳であり、神を知らない人にとっても普通に行っている内容です。イエスさまのこの答えからしますと、永遠の命に入るために門戸が開かれているといえないでしょうか。

神を知らなくても救われないということはないと言えるでしょう。事実、わたしたちの周りには、神を信じていない人がたくさんいらっしゃいます。イエスさまの青年への答えは、悪いこともしないで、地味ながら真面目に生きている人、自分の良心にしたがって生きている善意にあふれた人は、直接に神の手に導かれ、天国への道のりをしっかりと歩んでいるといえるのではないでしょうか。

さらなる青年からの質問に答えます。「あなたに欠けていることが一つある」と。確かに、小さい頃から守ってきた掟ではありますが、この世の生活に執着している青年のこころを見抜いて言われたのです。「行って、持っているものをすべて貧しい人々に施しなさい」と。青年の中にある「生ぬるさ」を除きたかったのでしょう。このことは、今の自分にも言えることではないか、・・。

「今どきの信仰者は、・・」とイエスさまに言われそうです。