年間第20主日(B年)の説教=ヨハネ6.51~58

2015年8月16日

イエスの心わたしの初聖体式は、小学校二年生の夏だったと記憶しています。鹿児島から転居し、集中的に「教え方」さんから学んだことを覚えています。その中で、覚えているのは天国と地獄の話、罪と告解の話、聖体の話です。

詳細についてはおぼろげながら、大罪を犯したまんま、告解を受けずに死んでしまったら地獄に行くとか、大罪を犯したままご聖体を拝領するともっと大きな罪を犯してしまうものなんだとか、否定的な、しかも脅迫的な「教義」の伝授が多かったような気がします。

年を重ねたためか、小さい頃聞いた話をよく思い出します。「聖体拝領」に関して言えば、噛んではいけません、と。そのことを意識すればするほど、上顎にご聖体がくっついてしまうので困ってしまったことを覚えています。

今は、このようなことを話す人もいなければ、気にする人もいないでしょう。大事なことは、そして真実は、ご聖体がイエスさまご自身であるということです。

教えの本質は変わりませんが、その説明の仕方、強調点は時の流れの中で変わってきます。神の恵みが少しずつ明らかになっていくのです。わたしが幼いころに聞いた話、教えは、今では聞かないし、考えたりもしないでしょう。

その昔、ご聖体は舌の上で溶かすんですよ、と説明されていたことが、「バリバリ、むしゃむしゃ食べるんです」と、今では言われています。噛んで味わうのです。イエスさまが自分の肉となり、血となります。いや、わたしがイエスさまに同化されていくのです。食べることによって変えられていきます。そして、信仰が成長し、信仰のありようも変えられていきます。これが聖体の秘跡です。聖体の秘跡の神秘です。

わたしたちのご聖体に対するイメージはどんなものでしょうか。「イエスの肉を食べる」「血を飲む」という表現の中には、わたしたちの救いのために十字架上で殺されるという神秘が前提されています。ご聖体を拝領する時に、この神秘を受けとめ、「わたし」をそれに重ねていく決意が求められてきます。

人間的に見れば、単に普通の「死」にしか見えないイエスさまの死が、実は、とてつもない力を秘めているのです。イエスさまの十字架とあがないをしっかりと受け止め、イエスさまと同じいのちに結ばれましょう。「父が呼び寄せてくださる」ように、「わたし」を委託しましょう。

神よ、素直な、謙虚な「わたし」に導いてください。