待降節第2主日(B年)の説教=マルコ1.1~8

2014年12月7日

message-eyecatch2待降節に入り、さて、何をしようかと考えているうちに、ふと、昔の子ども時代を思い出していました。クリスマスを前にして、教会の主任司祭は恐い顔をしながら私たち子どもに言っていました。「告解ばせんといかんとぞ」と。あの頃は週に一度のゆるしの秘跡を受けないと聖体拝領ができませんでした。

というより、今思いますに、ゆるしの秘跡を子どもに受けさせるための、司祭の「常套文句」だったように思います。同じような体験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。それが今では、こんな文句を言う相手(子ども)すらいなくなってきたのではないでしょうか。寂しい限りです。

確かに待降節は字のごとく、「待ち望む」期間です。キリストの誕生を待つと同時に、将来における救いの完成を待ち望む心を整えるという意味も含んだ「待つ」です。

時間の中に生きているわたしたちにとって、「待つ」ということは大事なことです。人間にとって、意義深いこと、大事なことは時間がかかるからです。待たされることが多々あります。一番身近なことで言いますと、子ども、孫の成長には時間がかかります。病気から回復するにも時間がかかります。ごく日常的な体験を積み重ねながら、その場を「待つ心」を育てる機会としていくことが、わたしたちには求められます。

そのために必要なこと、それは「神さまと人間とでは『時間の物差し』が違う」ということを認識しておくことでしょう。神さまのタイミングの良さと人間のそれとは隔たりがあり得ます。その「隔たり」は、人間の理解を超えています。つまり、人間の常識では認識できないほどの「隔たり」なのです。

神さまの救いの業は、途方もない大昔から始まっています。しかし、必ず実現します。イザヤの預言から洗礼者ヨハネの時までおよそ600年もかかっていました。そのうえ、神さまが良い時と考えたその時にも、事前に、メシアを迎える準備をさせる使者(ヨハネ)を送りほどです。用意周到です。

神さまと「物差し」が違うということをヨハネは次のように言います。「自分より後に来る者は、わたしより力ある方である」と。メシアの力強さが言われています。なのに、世の権力(ヘロデ)の前では、むしろ貧弱です。つまり、権力による「力強さ」よりも愛による「力強さ」が本物であるといっているのです。

こうした神さまの心を受けとめられるわたしたちの心の準備をするようにと、今日の福音は今の私たちに訴えています。愚かなわたしたちのために、人間の惨めさをすべて受け取り、背負ってくれる強いメシアだからです。だからこそ、「待ち望む」ことに裏切りはあり得ません。