復活節第5主日(C年)の説教=ヨハネ13.31~35

2013年4月28日

寄り添うイエス人はそれぞれにその人の歴史、苦悩と喜び、辛さと楽しさ等をかかえて生きています。しかも他者にはわからない状態で累積されていきます。そして、それがその人の人となりにも少なからず影響してきます。それがまた、「人間」と呼ばれる所以でもありましょうか。


自分の外にある人的・物的環境如何によって、人はよくもなるし、悪くもなります。とはいいましても、絶対的に悪い人はいませんが、・・・。

とにかく、自分の環境を否定することはできません。同時に自分は他者にとっての環境にもなっています。互いのかかわりの密度の中身如何で、言動の濃さも変わります。互いのかかわりが親密であれば、何か新しいことをしようとする時にも、長い説明は要らないのです。

イエスさまと弟子たちの間柄はどうだったのでしょうか。今日の福音からしますと、少なくともイエスさまの方からは親密な関係にあることをうかがわせます。「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛しあいなさい」とだけ言われます。弟子たちにはそれだけで通じたのです。これが師弟関係なのでしょう。

しかし、「新しい」おきてを与えるといわれます。この新しさが何なのか。ただ、「わたしがあなたたちを愛したように」とだけ言われます。だからこそ、弟子たちには十分に伝わったのです。イエスさまに愛された体験があればこその間柄なのです。何もこれ以上の言葉は要りません。

「イエスさまが愛したように」とはどのようにでしょうか。愛の同伴者は「幸せ」です。真の幸せを願っての愛の活動は美しいものですし、気持ちが晴ればれとします。一方で、見せかけのしあわせ、利己的なしあわせ、はかなく消えてしまう幸せの多いこと。物を与え、金銭的な幸せを与えようとする愛は、その経験上、真の幸せを築くものではありません。

イエスさまが「愛したように」とは、相手を生かすために、自分の一番大切なものを与え、自分のもとには何も残さない「自己放棄」の愛しかたといえるでしょうか。さらに、ご自分は神であるにもかかわらず、そのことに固執せず、ご自分をささげられたのでした。

わたしたちの日常でも、愛の基準を「イエス・キリスト」に置きなさいというのが、新しいのであり、真の愛であるということになります。こうして、互いのかかわりを密度の濃いもの、駆け引きのないあたたかな関係にしていくことができます。