年間第31主日(A年)の説教=マタイ23.1~12

2011年10月30日

神のみことば

人が互いに支えあって生きている限り、そこには集いができ、社会が誕生します。その社会が大きいか小さいかに関係なく、そのグループのまとめ役も生まれます。そして、その方が自分の役割をきちんと果たすために、その人に付与される権威なるものが発生してきます。

それは本来としては、そのグループ社会にいる人々への奉仕のために設けられたものであります。権威そのものには意味があり、価値があります。しかし、ひとたびそれが人の手に渡れば、しかも傲慢にあふれた罪びとの手に落ちてしまうと、価値あるものも失われていきます。

人々の上に立つことは魅力的なことです。上に立てば、他の人々の意志に従うことも必要なくなります。代わりに、自分の思い通りに人を動かせることは、時として精神的な快感となることもあります。別の表現をすれば、自分を世界の中心におくことができるようになります。人間に“エゴ”が生きている限り、権威は常に堕落する可能性大です。

今日の福音でイエスさまは、律法学者、ファリサイ派の人々の中に、ゆがんだ権威を見、そして、そのあやまりを指摘なさいます。「その行いはすべて、人に見せるためのものである」。そうでなくて、自己満足のためであったとしても、つまり、それは表面だけの行いであり、その動機は傲慢である、といわれます。

要するに、人から文句を言われるでもなく、ケチをつけられることもなく、反対されることもありません。それに慣れてくると、自分が人々のさまざまな活動の原動力となっているという錯覚に陥ってしまいます。人によっては顔の表情までもが変わってきます。普通に、失礼なことを言ったり、したりすることも気にならなくなります。

イエスさまは、そういう彼らにならうな、と警告なさいます。彼らの偽善性、本来の職に対する怠慢、また世俗性は神とのかかわりにとって、邪魔になります。逆に、謙虚さ、誠実さ、純粋さが神に向かう生き方の原動力になります。ここに本来の「奉仕」の心があるのではないでしょうか。このような権威を持った人との出会いができることは、なんと幸いなことでしょうか。黙っていても安らぎと充実感を味わえそうです。

真の平和も、安心も核抜き、テロ撲滅からくるものでなく、一人ひとりの心のありようから始まるのではないでしょうか。まずは一人ひとりです。その輪が、和が広がっていくことでしょう。