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年間第22主日:今日、イエスはなにを「わたし」に語っているだろう?

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年間第22主日(C年)の説教⇒2025/08/31

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

年間第22主日(C年)の聖書=ルカ14・1、7~14

2025年8月31日

人は皆、というわけではありませんが、よく聞く話に、自分と違う意見、行動をする人を毛嫌いする、まではいかないとしても、嫌な表情、機嫌を悪くしたりする人がいます。特に皮肉的なことを平気で言う人、動きが遅い人、とにかく反応が敏捷でない人等、時にはイライラしてくることをわたし自身も体験したことがあります。いずれにせよ、自分が嫌だと思っているタイプの人とは、できれば、かかわりたくないという思いがあるような気がします。

こうした体験をじっくりと振り返ってみますと、もしかして、相手の方を自分よりも低く見てしまっていたり、避けようとする傾向にありはしないかということです。「胡散臭い人だな」と言って、相手にしたくない気持ちが、露わに出ていると言えないでしょうか。

また、人はどこかでいつも「大事にされていたい」と思っているところはないですかね。粗末に相手にされると、どこか気分が悪くなってくる、ということはないですか。他方で、幼児は話題の中心にいたくてしょうがないことが多いです。単に負けず嫌いではなく、子どもが成長していく段階での一現象ではないかと思っています。個人差はありますが、そのうちにそうした傾向はなくなっていきます。

大人の場合は、感情が邪魔してしまって、気分に左右されることが多くなっていきます。要は、その感情をコントロールできるかどうかではないかと思います。そこに成熟度がかかってくるのでしょう。

それを成し遂げるために大事なこと、それが今日の福音に示されているのではないかと思います。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とありますが、「信仰者」としての成熟度がはかられるのが、このみ言葉にあるのではないでしょうか。このみ言葉を直訳すれば次のようになるそうです。「自分自身を高くするものは誰でも低くされるだろうし、自分自身を低くする者は高くされるだろう。」と。

年間第22主日:だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる
年間第22主日(C年)の聖書=ルカ14・1、7~14 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。

では、誰が高くし、低くするのかといえば、これらは受動形で書かれていますが、ここでの受動形は、いわゆる神的受動形と言われ、神が動作の主体であることを表す婉曲表現であるということです。したがって、分かりやすく表現しますと「自分自身を高くする者は神が低くするだろうし、自分自身を低くする者は神が高くするだろう」の意味になります。ここには人間の行動に対する神の応答が正反対になることが強調されています。

イエスは大胆にも神のなさり方を説明されているのだと言えます。いわゆるマグニフィカットに示されている「マリアの賛歌」は、まさに、このことをうたい上げています。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」(ルカ1章46~55節)

人間社会において、宴会などの席で上席を求め、自らの社会的な地位を誇示しようとする者に、真の友情、親しみを覚えますでしょうか。周りの人は、その人にいやらしさを感じ、嫌な思いをするだけでなないでしょうか。したがって、真の交わりなど閉ざされてしまいます。互いに心の中で警戒を深めていくだけに終わってしまいます。かえって疲労感が残るだけになりはしませんか。実に残念です。

なんといっても、真の交わりは、自分のありのままを開いて見せあうことによって、これを土台として築き上げられていくものではないのでしょうか。それが成長していくのです。

神との交わりにおいても同じことが言えると思います。人はまず自分の真の姿を知ることが大事です。その上に、神との交わりが始まるのではないでしょうか。神との交わりは「真実」を土台とするからです。自分の真の姿を知る心に「へりくだり」が生まれてきます。わたしたちの真実、それは、自らの存在は、与えられたものであるという事実です。この生命は、自らの力でつくり育ててきたものではないということです。人々の愛、神の愛があったからこそ存在してきたのです。身近には親、兄弟姉妹、そのありがたみを感じていませんか。時にはいさかいを起こしたかもしれないけど、やっぱり兄弟姉妹だという落ち着いた、安心できる関係に戻ります。

また、人には迷惑をかけ、心配を与え、人々を苦しめてしまっている自分である弱い存在です。にもかかわらず、人からは無償の愛、やさしさをいただいて生きている自分です。

神だって同じです。一方的に神はわたしたちに愛を、やさしさを注がれます。いつも支え導いてくれるのは神です。それはわたしたちを幸せにしたい思っているからです。わたしたちが神を無視しても神は見捨てるようなことはなさらないのです。だから「わたし」は存在し続けているのです。

謙そんな心は、自分の存在の根拠が、神と人との無償の愛によっているという現実に目覚めることから始まります。ここから、神との交わりも深められていきます。よくわかっていいるつもりでいるんですが、・・・。絶えず自らと闘いつつ、・・。

きょうのイエスは、どのようなことをこの「わたし」に諭されているのでしょうか‼

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