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年間第19主日:「神の約束の実現」を確心し、確認するのが信仰

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年間第19主日(C年)の説教⇒2025/08/10

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

年間第19主日(C年)の聖書=ルカ12・32~48

2025年8月10日

わたしたちの周りには、ある地名、産物、その他の名前等を聞く時、それらから類推してそれぞれの場所、人、もの等を連想できることがあります。いわば、それらがその場所、人等の特徴となっているからです。例えば、わたしが連想するに、サクランボの産地は山形県、とか、お茶の名産地は鹿児島、静岡県等です。また、何も産物だけでなく、その人が着ている服装によっても、何のスポーツの選手なのかが分かったり、楽団の中で、手にもっている「もの」によって、オーケストラの中で、どの楽器を担当するのかが分かります。

このように外見に見えるものはすぐに、誰が見てもわかるんです。が、しかし、外に、五感にわかりにくいものについては、そのほとんどが「人」についてのことになるとは思うんですが、即座に、その人が何を思い、考えているのか、わかるものではありませんよね。その人とお付き合いがあると、何となくわかることが出来るでしょうが、・・。しかし、どこまで的を射た捉え方になっているかは定かではありません。人間本人自身も自分のことなのに、よく分からない時ってあるのではないでしょうか。

例えば、あまりにも緊張の度合いが高くなって、自分でも何をしゃべり、何をどうしたのか意識の中に入ってこないことってありませんか。

わたしは自身のことを思い出します。司祭叙階のお恵みをいただいて、最初のミサの中で、特に、お説教の時が来ると、足がガタガタ震えて、この時って震えが止まらないんですね、何を語ったかさっぱり覚えていないんです。極端に言うと、ちゃんとした日本語をしゃべっていたんだろうかと。たとえそうだったとしても、信者さん方は何も文句も言わず聞いてくださるんです。とてもありがたいことです。ただ、一生懸命であったことは確かです。この一生懸命さが、ひょっとすると、わたしへの文句、愚痴にならない力になっていたのでしょうか。

年間第19主日:常に用意していなさい。人の子は思いがけない時に来る
年間第19主日(C年)の聖書=ルカ12・32~48 イエスは弟子たちに言われた。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。

今日の福音で「目を覚ましている」と訳された言葉は、キリスト者の特徴を表す言葉として初代教会では多用されたと言われています。キリスト者とは「目を覚ましている者」なのです。このような態度がなぜ可能なのか、次の言葉にあります。

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」(ルカ12.37-38) 

つまり、主人自らが帯を締め、給仕をしてくれる食事が準備されているからです。だけど、実際には、主人が、起きて待っていた僕たちに給仕するとは考えれないことです。これはイエスが再び来られる時に実現する神の国の食卓を表しています。しかし、キリスト者が生きる今は、キリストの再臨を待つ時です。だからこそ、どんな状況にも対応できるように「腰に帯を締めて」準備しながら待つようにと。わたしたち一人ひとりに向かって、キリストへの熱心さが問われる言葉でもあります。つまり、キリストへの熱心さを失わずに待つべきなのです。

イエスを信じて生きる者の基本姿勢をあらわす言葉がパウロの手紙の中にあります。

「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。」(コリントの信徒への手紙Ⅰの16章13節)

また、別のところでも、キリスト者の姿が記されています。

「兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(Ⅰテサロニケ5~6節)

夜は盗人の活動に象徴されるように、悪が活発にうごめく時です。しかし、太陽が昇り、昼間になると、闇は退散し、悪は活動をやめざるを得なくなります。先のパウロの言葉の中にキリスト者の姿が表されているということが出来ます。他の人たちは眠っています。ですが、キリスト者は目覚めています。救いの時である昼に属しているからです。こうした自覚が、今、取るべき態度を可能にしてくれるのです。

その代表者が、第二朗読(ヘブライ人への手紙11章1節以下)に登場するアブラハムでしょう。

この中で、「望んでいる事柄」「見えない事実」とは「神の約束の実現」を指しています。アブラハムはその出身地、ユーフラテス川沿いのカルデヤのウルを出発し、家族はハランに移住しました。その後、神の命令に従って、カナンの地に移り住んでいます。これらすべて神の約束があったからです。

「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。あろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。 (創世記17章5~7節)

約束しているのは神です。アブラハムとサラにとって、神は「真実なお方」であると信じる信仰のうちに故郷を離れました。そして、神の約束の確かさは、サラが子どもを授かるという恵みによって、自分たちの思いを超えた生を体験させてもらったことにあります。

わたしたちも受洗の時に、神の確かさを受け入れたのです。改めて思い出し、見えないけど確かな未来に進むことが出来ますように、「キリスト者らしさ」を自己確認しましょう。

確かさは、わたしたちの信仰にあるのではなく、神の約束にあります。

 

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