
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
年間第14主日(C年)の聖書=ルカ10・1~12、17~20
2025年7月6日
約二千年の歴史を刻んできた教会は、さまざまな時代をくぐり、多くの体験をも積み重ねてきました。時の流れとともに教会の形も、時のニーズにこたえて、少なくとも応えようとして変遷をたどりました。
その教会がキリストの教えのしるしになったときもあれば、逆に、惰性に流されて堕落し、キリストに近づこうとする人々にとって、つまずきとなってしまうときもありました。いずれにしても、教会はキリストの心を受け取り、それを伝えようとしているでしょうか。
教会はイエスの教えを広く多くの人に伝える使命を持っているだけに、この使命と責任を果たしていくにあたって、どのような心構えを持つ必要があるのか、今日の福音書は何を語っているでしょうか。
今日の福音書は、イエスが自らのメッセージを世に広く伝えるために、72人を選びだしたということから始まります。モーセの時代にも、モーセと共に70人の長老がいました。彼らが神の民を指導し、教育していたのです。

今、イエスが新たに72人を指名したということは、新しい民の誕生を意図したということでもありましょう。そして、その民を導く者をご自身で選んだということになります。
選ばれた弟子たちには、権威が生じます。現代社会が証明しているように、この権威は怖い代物です。というのは、権威が欲望と結びつけば、宗教の純粋性が損なわれ、蝕まれてしまいます。当然のこと、ゆがんだ権威はイエスのメッセージをゆがめてしまいます。イエスを求めて寄ってくる人たちにとって、逆に大きな妨げの源になってしまいます。
弟子たるものは、人々のさまざまな生きる「生の姿」に目を向けなければいけないのではないでしょうか。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」このみ言葉は、牧者のいない羊のように疲れ果て、ぐったりしている人々がなんと多いことだろうか、という当時の人々が救いに飢え渇いている人の多いことを伝えています。これが庶民の現実なんです。
現代の人々も「救い」に飢え渇いています。その救いが神からの救いというのではなく、お金を得ることをとした飢え渇きなのではないかと思ってしまいます。皆がそうだとは言えませんが、お金にまつわる事件が多いです。
一般的に事件といえば、そこには加害者と被害者が存在します。しかし、今戦いを展開しているガザ地区では、そのことがはっきりとしないというか、できないような気がしています。それは「戦争」だからです。最初にけしかけた側ははっきりとしていても、戦いが長年にわたって続くと、それはどうでもいいような話になってくるような気がします。
或るひとりのイスラエル出身で、現代のジャズシーンをリードするピアニスト、シャイ・マエストロさんが来日し、東京都内でコンサートを開いています。コンサートが終盤に差し掛かったころ、マイクを片手に客席へ向かって語り始めたのです。
話しはパレスティナ自治区ガザで続いているイスラエル軍の攻撃について及びました。マエストロさんはガザでの惨状について述べ、声を詰まらせました。「わたしたちは誰もが人間であり、人権がある。お互いの存在を共感しあうことが大切だ」。客席から大きな拍手が起きる中、再びピアノに向かい、演奏を始めたのです。(南日本新聞2025年㋆2日朝刊)
この話の中で、何度も口にしたのは「共感」という言葉でした。わたしたちが人間である限り、美しいもの、綺麗な音、景色、笑顔等、共に感じあえる感性を持ち合わせています。
イエスは言われました。「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」
シャロームは基本的には「なにかが欠如したり、損なわれたりしていない充足状態」を指し、そこから特に「神の祝福に満たされた個人と共同体の調和と、その調和の中での、自由で、妨げられることのない魂の成長」を表します。ですから、「真に望ましい、救いの状態」を表現する言葉になります。皆、「シャローム」なる言葉と意味するものに共感できるでしょう。そうあってほしいですね。
したがって、「この家に平和があるように」と祈るのは、単なる「家内安全、無病息災」を祈るためではなく、むしろ、「神からの救いが満ちるように」と祈るためです。このような平和をもたらす力は、人間が生み出せるものではなく、神が与えてくれるものでなければ不可能です。
わたしたちの日常はどうでしょうか。身近なところから「シャローム」を願いましょう。そうです。わたしたちは「願う人」でなければいけないのです。収穫の主である神が働き手を送ってくださるように祈ります。「宣教する」という行いは、遣わされた者による行為ではなく、派遣された者を通して働かれる神ご自身の業だからです。
だから願いましょう。だから、わたしたちは、どこまでも共感できる仲間であり続けましょう。
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