
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
聖霊降臨(C年)の聖書=ヨハネ14・15~16、23b~26
2025年6月8日
「いかがお過ごしですか」と問えば、「毎日仕事、仕事、仕事ですよ。びんぼう暇なしです」といった返事が返ってきそうです。わたしたちの日々は、どのようにして成り立っているのか、つまり、自分一人だけの力で過ごしているわけではありません。目には見えなくても、例えば、食べ物の場合、食卓に並ぶ前に農家の方々がその育ちのために施してきた水やり、肥料やり等の世話、それを市場まで運んでくれた運送会社の人、その他多くの方のサービス、かかわりを経て目の前に今並んでいるのです。日頃考えたことなど、あまりありませんよね。でも、これがわたしたちの日々です。そして、平和の裡に過ごせていることが、いかにお恵みなのかにも気づかされます。
今日は聖霊降臨の主日、大祝日です。聖霊が使徒たちにくだり、教会が誕生します。それほどの力を持った聖霊、実は、この聖霊はわたしたちキリスト者の生活にとって、大きい意味を持っています。
今日の第二朗読にその重要性が記されています。
「兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」(ローマの教会への手紙8章12~16節)
またパウロは言います。
「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」(ローマの教会への手紙8章8~10節)
パウロの言葉によれば、キリストに属している者とは「キリストの霊を持ち」、「神の霊が宿る」、あるいは、「キリストがあなたたちの内にいる」者のことです。「キリストがあなたがたの内に」いるなら、キリストの「霊」が神の義のゆえに、あなたがたに命を与えます。神の義とは、死者の中からキリストを復活させ、死を免れない体に命を与えるという神の計画です。(11節)神を現わすことのできるキリストが内にいるなら、神の計画は必ず実現します。

現に問題が起こると、どうにか解決しようと努力します。ある時にはもがきぬいて疲れ果てる時もあります。どうしても「肉に従って生きる」ことの空しさに気づかないまま、神に身を開いていこうとしないからです。後になって振り返るとき、このことに気づかされますが、・・・。
言葉を変えて言えば、自分自身の人間的な可能性に頼ろうとする生き方にこだわってしまうのです。「体の仕業」とは、そのような生き方から生じる行いです。そうであれば、「体の仕業」は人間の力では絶つことが出来ません。だから、神は人間に「霊」を与えて、人間が「神の子」と呼ばれることをゆるしたのです。
後に、人間の罪が深まり、罪が地上に広がると、この神の霊が取り去られるという思想があらわれてきます。罪は天と地をつくり、それに調和を与えた神の霊にさからうものです。時がすすむにしたがって、人間の罪が大地を荒廃させ、廃墟とするという思想が明確になってきます。イザヤ、エレミア、エゼキエル等、預言者の時代に罪がきわまり、荒廃の極みに達したという自覚が深まると同時に、一方では霊による救いを求める祈りが沸き上がってきます。「地の面を新たにしてください」という叫びは、こうした時期のものでしょう。
したがって、神の霊は、わたしたち人間の日常生活と密接に結びついているのです。深刻な罪の体験と滅びの危機の中に追いつめられて、人々は人間を再創造する神の霊を呼び求めるようになっていきます。
わたしたちの今の日々も同じようではありませんか。神に助けを求める方に向いたとき、神の子としての一人ひとりにふさわしいものに変えられていくのです。このことを実感し、どう祈ったらよいかを取り次いでくれるのが霊です。
「神の霊によって導かれる人こそ、神の子である」(14節)
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