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年間第11主日:人知れず働かれる神に関心を!時には心からの思いを馳せよう

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年間第11主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第11主日(B年)の説教=マルコ4・26~34

2024年6月16日

梅雨の季節に入ったためなのか、最近気が重くなったなと感じているところに、鹿児島市の認定子ども園で起きた殺人未遂事件のニュースが入ってきました。(7日)この事件をテレビで知った時、疲れがピークに達しました。疲労感を覚えてしまったのです。現役の保育教諭が事件の当事者であったということで、ショックでしたね。何があったのでしょうか。他人事ではありません。多くの教諭の力をお借りして保育業務に当たっている現状を考えますと、どうしても見過ごすことはできないのです。また、見過ごしてはいけないでしょう。

もちろん、これらの事件を受けて、一人ひとりの反応、思い、表現には違いがあります。個人としての違いは、いわば、わたしたち人間の共有の財産ともいえるのではないでしょうか。だからこそ、発展があるし、人類の成長・進化の源になっていくのではないかと思います。そうであるはずだろうと思っているし、事実、切磋琢磨しあうからこそ、今もなお、新しい発明・発見がなされ続けています。

であるのに、そうでもない現象がどうして起こっているのでしょうか、と思われる出来事が、これまた、いまだに続けて起きています。それというのは「いじめ」です。いじめは1980年代半ばに、いじめ自殺事件の報道ブームをきっかけにして、はじめて社会問題になってきました。(gendai.media/articles)

いじめ問題に対する社会の取り組みには、大きく分けて4つの波があるといいます。ソクラテスのたまご「連載いじめのトリセツVOL.2」

第一の波(1986年頃):“いじめられる理由”論調に否定をする世論が形成。

最初に社会問題となったのは1986年の東京都中野冨士見中学校の鹿川裕史君のいじめ自殺。いじめグループのリーダー格を名指しして「このままじゃ生き地獄になっちゃうよ。もう君たちもバカなことをするのはやめてくれ」という遺書を残し、鹿川君は亡くなりました。通学当時「追悼の色紙」として担任や同級生が寄せ書きをし、机に花や線香を添えた「葬式ごっこ」も発覚。教育関係者らに衝撃を与えました。(出典:1992年3月27日東京新聞夕刊記事)

鹿川君いじめ自殺が社会に与えた衝撃は大きく、これまでの「いじめられるのには理由がある」という論調からいじめを否定する世論を形成する土台となりました。

第二の波(1995年頃):“いじめられる側も悪い”という世論が払拭。

第2の社会問題化は1995年前後。1994年、愛知県の中学2年の男子生徒・清輝君(当時13歳)の自殺が契機です。葬儀後に発見された遺書から判明した、悲惨ないじめの事実が社会に衝撃を与えました。遺書には川で顔面を無理やり水の中につけられ、川の中で足をかけられて息ができず、力づくで押さえつけられるという恐怖を与えたいじめが図入りで書かれていました。この事件は連日報道され、その後もいじめを苦にした子どもの自殺は相次ぎます。恐喝・強要・傷害等が起きるケースから、“いじめは絶対に悪い”という世論が決定づけられました。

第三の波(2005年頃):いじめ問題に対する“隠蔽体質”の浮上。

この頃から、学校や教育委員会の“隠蔽体質”が問題として浮上してきたのです。

第四の波(2011年頃):「いじめ防止対策推進法」の制定。

2011年、滋賀県大津市立中学校の2年男子生徒が飛び降り自殺をしました。大津市教育委員会は学校が行ったアンケートの内容では事実関係が確認できないと公表せず、いじめと自殺の因果関係も不明と結論づけます。市教委にも「新しい事実は確認できなかった」と報告。学校と教育委員会の隠蔽体質が発覚し、大きく報道されました。

時の流れとともに、「いじめ」の内容も変化してきています。そして、その対応のあり方にも、なんだか陰気臭い雰囲気が漂ってきました。要するに、人間の心の奥に潜んでいる負の部分が、知らず知らずのうちに頭をもたげてくるのではないでしょうか。本人も気づかないうちに、大人・子どもを問わず、「わたし」という人間全体を包み込んでしまうのでしょう。

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結局は、人は自分の弱さに泣き、自分の醜さに苦しむ、これらはすべての人間が味わい、背負っていかなければならない現実の姿です。どんなにもがいてもそれから抜け出ることはできないのです。今日のイエスの話しは、このようなわたしたち人間に希望を与えるものです。

今日の二つのたとえ話の中心は、神への信頼を呼びかけることにあります。農夫は種の成長を知らず、収穫の時を思うがままに操作することもできません。ただ、実りを信頼して水をまき、雑草を取ります。神の国(支配)も同じだと言われます。神の国の建設は人の手を通して進展しますが、人の手の中にあるわけではありません。神が働いているのであり、人の目には「ひとりでに」成長しているように見えるだけなのです。農夫はひたすらじっとその実りを待つだけです。

だから、わたしたちにも挫けることなく、神の働きを信じ、待っていなさいと言われます。神の働きはわたしたち人間の目にはかくされています。見えないのです。神の働きを感覚でとらえ、確かめることはむずかしい。でも、大きな実りをもたらします。神の働きは、いつも人知れず静かになされるからです。

だからこそ、時には、わたしたちの目には見えない神の働きに、思いを馳せてみることは大事かなと思います。それは、わたしたしの中にある弱さ、醜さ、それゆえにゆきづまっていく「わたし」に目覚める時でもあるのではないかと、・・。

できる限り、心の「負」の部分を乗り越えていきたい。人間らしい「本当の自分」に一人ひとりが気づき、求め、さらに、追い求め続けていきますように、・・・。「いじめ」撲滅。

 

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