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待降節第3主日:イエスの証しは、日々「わたし」の身近なところで

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待降節第3主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」

待降節第3主日(B年)の説教=ヨハネ1・6~8,19~28

2023年12月17日

「1952(昭和27)年8月、ダレス長官により、突如、奄美の日本返還が伝えられ(ダレス宣言)、1953(昭和28)年12月25日、北緯27度以北の奄美群島は鹿児島県大島郡として日本へ復帰。」

「奄美大島復帰70周年」をめぐる話題から

今年で、奄美大島の日本返還が認められて満70年を迎えることになります。節目の年に当たる今年、その歴史を眺め直したり、当時の苦労した思いを共有しようという趣旨でしょう、多角的に見直しをしているように思えます。また、記念すべき年を迎えるにあたり、「復帰70周年」をお祝しようと、これからも計画がなされていくのでしょう。その一つが、地元紙、南日本新聞に「奄美復帰70年」と題し、いろいろな歴史の出来事が紹介されています。

「ミルク配給未だなし」「鉛筆ない児童 教師が世話・・・」。(南日本新聞2023年12月12日朝刊)昔を思い出させる見出しが並んでいました。そういえば、私自身、小学校のころ、まともに一本のまっさらの鉛筆を見たことがあったっけ、と自問自答してみますと、答えは「ノー」です。いつも手に握っていたのは、使い古しの残りの短い鉛筆に、長さを補うキャップが付いたものを、何の疑問もはさまず使っていたなという記憶です。だからといって、不満を感じたり、ふて腐れるようなことはなかったとも記憶しています。子ども本人は、置かれていた状況に満足していたんじゃないでしょうか。今の子どもたちも同じだと思います。

「あの頃は貧しかったんだなぁ~」と認識できるようになったのは、大きくなってからでした。子どもは、目の前に差し出されているもの、場所、環境をそのまま素直に受け入れ、その中で一生懸命に生きる、そのことが出来る存在なんでしょう。変な入れ知恵をして煽らない限り・・、子どもはあくまでも純粋です。まっすぐです。

上記の紙上の見出しは、鹿児島国際大学の千々岩弘一教授(67歳 国語教育学)が、2021年度から学生の協力を得て復刻作業に当たり、今年3月に完成したものです。それが、奄美復帰70年を機に、新たに紹介、発表されたのでした。何の復刻作業かといえば、天城小学校職員会議で記された、その会議録です。それによると、本土への渡航や物流が禁止・制限された米軍占領下で、物資不足に悩みながら授業していた教員たちの苦労が、うかがえるようです、と紹介されています。その中身を少しく紹介してみますと、

「国語科の授業公開の後には『方言で話しかけてきた場合に方言で答えると悪い影響が来るのではないか』『発音には注意してほしい』などの発言があり、共通語教育の一端がのぞく。保護者からの要望も多く、教育への関心の高さが伝わる。・・・このほか、教職員の働きかたを巡り

『時間(勤務上の)と待遇は不釣り合い』と不満が出ていたこともわかる」。

紹介の終わりに、千々岩教授は「教員がどんな思いで学校運営に当たっていたか推察できる。当時の学校の様子を知る手掛かりとして、また教育史研究の資料として活用してもらえたら」と話しています。

このような資料の作成は、わたしたち人間社会では、歴史の流れからその地区・地域の文化、社会の人々の暮らしぶり、当時の社会環境に関心を示し、学習し、さらには、過去を見て今をより詳細に知り、語るためにも、とても重要な貴重な資料です。「ある事柄の事実性を確認し、断言していく」には十分な資料になります。この作業が、わたしたちの社会では「証しする」ということになるでしょう。したがって、「天城小学校の職員会議録の復刻作業」は、「奄美復帰70年」の節目に、その頃の学校情勢とその暮らしぶりに触れ、今への流れと関連性を知る良き「証しの資料」となりました。

二週連続で登場する洗礼者ヨハネの使命とは

今日の福音書では、先週に次いで洗礼者ヨハネが登場します。今日のヨハネは、霊を受けた者の「証し」をする人として紹介されています。

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「証し」という言葉は、本来は訴訟といった法的な環境で使用されるものでしょうが、聖書では、神の業を証しする「信仰の証し」といった側面へと拡張されています。そして、神は、旧約の時代においては預言者を通して証ししていましたが、新約おいてはイエスを通してご自身を証ししています。

先週のヨハネは、「荒れ野で叫ぶ者の声」として、メシアの到来を準備する先駆けとして、荒れ野で活動していることが紹介されていました。今日は、そのヨハネの活動が一歩進められた形での「証し人」として登場します。何の証か。イエスが父のもとで見聞きしたことを「証し」したその「証し」は、正しいものであるという「証し」なのです。

ヨハネにはじまった「証し」を通して、イエスが証しした御父についての証しが、全世界に広がっていったのです。

自分自身ではなく「光」について証しする

ヨハネは「証し人」としてきたのですが、自分自身についてではなく「光」について証しするためです。つまり、自分以外の誰か(光)を証しするのです。

そして、今日の福音書の前半では、派遣された人々との問答形式で進められています。しかも、その初めのうちはヨハネは否定的な答えを発しますが、23節に来ると肯定文を用いて「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と答えます。共観福音書の同じ個所と違うのは、「わたしは」というヨハネ自身が加えられていることです。共観福音書で、ヨハネを「荒れ野で叫ぶ声」と見ていたのは福音記者であるのに対し、ヨハネ福音書では「ヨハネ自身」であるということになります。

さらには、「わたしはこの方を知らなかった」とあるように、まだ出会ったこともないメシアについて語っていることになります。その中身はといえば、彼自身がみたメシアの人柄とか振る舞いではなく、ヨハネを遣わした方によって知らされ、教えられている事柄だったのです。

わたしたちの社会では、何が証しされているのか、その中身を自分の利害関係の中で判断し、行動してはいませんか。どうしても弱さを身に帯びている存在だからでしょうか。まずは、それを克服したいですね。

神の証しを喜び、ありがたく感じ、感謝できるように、・・・日々を生きる身近なところで。

 

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