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主の降誕:「イエス誕生」の出来事そのものは、そのメッセージを語っている

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主の降誕(夜半のミサ)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

主の降誕の説教=ルカ2・1~14

2022年12月25日

わたしたちは日常、「人間常識」という言葉、表現をよく口にします。そもそも「常識」とは何でしょうか。 それは、社会において「これくらいのことは知っていて(できていて)当然」と多くの人が思っている知識や行動のことです。とはいっても、当然のことながら、常識を知らない人には常識のある行動は取れません。ただ、あまりにこだわりすぎる人は、非常識な人と同様に嫌悪感を抱かれやすいものです。(マイナビウーマン)
では、人々がいう常識とは、具体的にどんなことを指すのでしょうか。

わたしたちは、みな「常識」の中で生きている

まずは日本社会において「一般常識」や「社会常識」といわれることを、いくつかピックアップしてみますと、

  1. 初対面や目上の相手には敬語を使う
    日本では、初対面の相手や目上の相手に対して敬語を使うべきとされています。中には「尊敬できる相手にしか敬語は使いたくない」と考える人もいます。しかし日本では、適切に敬語を使えない人は非常識と思われかねないのが実情です。
  2. 電話をかけるときは早朝・昼食時間・夜間を避ける
    電話をかける時間帯にも、常識・非常識があるといえるでしょう。中でも特に注意が必要なのは、これらの時間帯です。・早朝・お昼時・夜間。日本では、これらの時間帯に電話をかけることは失礼に当たります。この常識はビジネスシーンだけでなくプライベートシーンにも当てはまりますので、ぜひ意識しておきたいところです。
  3. TPOに合わせてあいさつをする
    TPOに合わせてあいさつをすることも、日本においては常識といえる行動です。朝・昼・夜のあいさつ「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」などに加え、社内での「お疲れさまです」や「お先に失礼します」などのあいさつも、日本社会では“できて当然”と思われます。裏を返せば、これらのあいさつができない人は非常識だと思われる、ということです。
  4. 食事中・仕事中は机に肘をつかない
    姿勢にまつわる常識も、知らないと恥ずかしい思いをするかもしれません。中でも肘をつくという行為は、食事中や仕事中に行うと常識がないと思われやすい行為。

(マイナビウーマン・永瀬なみ《心理カウンセラー》)

こうして、あえて取り上げてみると、わたしたち人間の日常は、なんとまあ足かせ手かせで縛られているような窮屈な世界、と感じてしまいますが、ほとんどはみなさん、これらのことは無意識的に行っていることでしょう。同時にそれは、その人の人となりを物語っているともいえます。

主の降誕【クリスマス】今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった
主の降誕の福音=ルカ2・1~14 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニゥスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。

人間常識の世界では、赤ちゃん誕生に際しても「常識感覚」が問われてしまうのかもしれません。最近では、そうそううるさく言わなくなったのかもしれませんが、誕生に際しては挨拶状、贈物、感謝状等、準備に、事後処理にと気を遣うこと、配慮していくことなど、そのご家庭によってはたくさんあるような気がします。

常識では理解できない「救い主」誕生の次第

でも、2000年前のユダヤの国では、この常識の世界からすればとんでもなく期待外れの、しかも非常に惨めな弱々しい赤ちゃんの誕生があったのです。

それはといえば、もちろん幼子イエスの誕生です。長い旧約の歴史の中で、ユダヤの人々が描き続けてきたメシア(救い主)のイメージは、偉大な力に満ちた権力者のはずでした。それがどうでしょう。天使たちから知らせを受け、羊飼いたちが出会ったその赤ちゃんの「救い主」(メシア)のしるしは、宮殿でもなく、華々しい神殿でもなく貧しい「飼い葉おけ」でした。

そうした幼子イエスの中に救い主の姿を見出すことは、いたって困難を極めました。なぜなら、ユダヤ人が抱く救い主のイメージとはずいぶんとかけ離れていましたから、・・。あまりにも貧しく弱々しく見えてしまいます。それはとりもなおさず、救い主のイメージを狂わせるのに十分過ぎました。貧しい誕生に始まったイエスの姿は、民衆にとって、特に指導者階級の人びとにとって、メシアを受け入れるのに「つまずき」となってしまったのです。

イエスは生涯、一途に弱い人々への愛を貫いた

しかし、外に見える弱々しさとはうらはらに、イエスの真の姿は、地上に生きる人々の中に沁み透っているエゴイズムに代わる愛の息吹を、そそぎ込もうとなさっているのです。エゴイズムは人間の最大の不幸です。イエスは地上のあらゆる苦しさ、悲しさ、貧しさを自らが受け取ることによって、そのことを示そうとされています。つまり、その示された中味は、エゴイズムにかわるイエスの愛だったのです。誰からも抹殺されることがない愛、苦しみが増せば増すだけ燃える愛の炎でした。

イエスのいのちは、まさに、貧しい、弱々しい誕生に始まり、その一生は人々の中にうごめく野心やエゴイズムに翻弄され、圧倒され、挙句の果てに十字架刑を受けてその生涯を閉じることになってしまったのです。
イエスの誕生を歴史的な一出来事として済ますことはできますが、信仰者にとっては、少なくとも当時のユダヤ人にとっては、理解しがたいイエスの誕生環境なのです。つまり、生まれた場所、祝いに招かれ訪れた人々、ヘロデ王の野心と妬み、それによりエジプトへの逃亡、偉大な神のイメージからすると、あまりにもかけ離れていて、似つかわしいとはいえないのでは・・。

しかし、だからこそイエスは誕生なさったのです。イエス誕生の環境(時代、人物、人の思い等)そのものもさることながら、その生涯、イエスが相手にしてきた民衆は、社会の日陰に生きる人々で、目立たない存在でした。ここにイエスの人々への愛があります。

このことを、今日のご自分の救い主としての「誕生」によって、身をもって示されていると言えるでしょう。

おめでとうございます。

 

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