聖霊降臨(A年)の聖書=ヨハネ20・19~23
2023年5月28日
人が人らしく生きていくためには…
人は、なんといっても、一人でいることは、人としてふさわしい生き方ができないのではないかと思います。というのは、人としての特性、魅力が生かされなくなるし、そもそも、存在していること、生きていることの意義が見いだせなくなります。つまりは、すべてが意味をなさなくなるということです。でも、現実はこうやって人々の間に生きています。そうです。だから、「自分らしく」生きることがお互いのためになるのです。
「軟禁事件」について思いを巡らす
わたしたちの周りでは、毎日いろいろな事件事故が起きています。その出来事の中に、「軟禁事件」というものがあります。「軟禁」ということばをちょっと調べてみますと、以下の記述がありました。
「軟禁 (なんきん)とは、人の行動の自由を奪う手段のうち、被拘束者の行動の自由を完全に奪うことを目的とした手段ではなく、専ら被拘束者の逃亡や部外者との接触を防止することのみを目的として用いられる比較的抑制的な手段を指す言葉。軟禁と呼ばれる状態の下では通常、被拘束者は 牢獄等には収容されず、家宅やその他類似の居住施設の中での一定の行動の自由は許される。ただし、外部との通信は制限を受ける可能性が高い」(ウキペディア)
子どもたちを見ていますと、明らかに、彼らは動き回って成長していく、子どもならではの特質を持ち合わせています。そうです。彼らの学びは、置かれた環境の中で、動きながら学び、成長していくのです。それなのに、母親から虐待を受け、一度も小中学校に通わせてもらえないまま18歳まで福岡市の自宅に軟禁されていたという方がいらっしゃいます。咲来美波(さくらいみなみ)さん(33歳)です。(2020年12月12日毎日新聞ネットニュース)
18歳まで自宅軟禁された女性がいた
「虐待を受け続けた18年、家を出て15年、今、彼女はなにを思う」と題した講演会が、非行に向き合う親の会「ははこぐさの会」(福岡市)の主催で開かれました。立ち見が出るほど会場を埋めた約60人がメモを取るなどして熱心に聴き入ったのです。咲来さんは、幼いころから母親によって福岡市博多区の団地の一室に閉じ込められました。「留守番中にテレビを勝手に見たという理由で顔や背中などを殴られたのをきっかけに、18歳だった2005年11月、自宅を逃げ出して警察に保護され、母親が傷害容疑で逮捕されたことで事件が公になった」のです。
これだけ長い軟禁状態を体験した後は、当然のことながら心身へのダメージが心配されます。意を決し、自宅から逃げ出してからの15年は社会になじめず、苦労の連続でした。20歳から生活保護を受け、1人暮らしを始めたが、学校に通わせてもらえず他人と関わった経験がほとんどないため、その結果としてコミュニケーションの取り方が分からず、人間関係に悩んだのです。また、家族や保証人がいないことで希望の仕事にも就けなかったのです。「私の経験を聞くと相手の顔色が変わり、腫れ物のように見られるのがつらかった」と声を詰まらせました。支援者に求められて始めた講演活動が転機になったといいます。「過去はなかったことにできない。自分の力ではい上がるしかない」と決意。虐待を生まない社会をつくりたいと、自身の経験と少しずつ向き合い始めたのです。支援の輪も広がりつつあります。
家に閉じ籠っていた弟子たちに聖霊が
今日の福音で、主が弟子たちと別れた後、彼らはユダヤ人を恐れて戸を閉め、一つの部屋に集まっていた、と記されています。何か意を決して、一つ心で集まっていたのではなく、ただユダヤ人が怖かったのです。誰かに強制的に集められたのではなく、その意味では、彼らは「軟禁状態」にあるとは言えませんが、内容的にはそれと同じような状況であるといえなくもありません。その時の弟子たちの心身の状態は、自分たちでは背負うこともできず、ましてや解決するなんてできない現実、イエスの受難と十字架上の死を前にして、この世の醜さ、欲望の大きさに圧倒されてしまっていたのです。そうした弟子たちが何となく一つどころに集まっていたのです。それぞれに心に悲しみと悩みを抱えながら集まっているのです。いわば、混とんとした無の状態にあったともいえます。
そのような状態の弟子たちの前に、イエスがご出現なさいます。そして、彼らに息を吹きかけて言われるのです。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と。
弟子たちは聖霊を受けることができるのです。罪や自己中心的な心を持った弟子たちに聖霊が働きかけるのです。そして、教会が誕生します。さらに、弟子たち自身には、何もない空虚な心に聖霊が働きかけることによって、愛の力強さが芽生えてきたのです。つまり、自己愛、利己心を抑え、イエスの思いと同じような豊かな愛とゆるしと祈っていく力が高められていったのです。それまで、罪の重みに押しつぶされそうになっていた弟子たちの心が変えられていったのです。神の働きに妨げになるようなものを持っている弟子たちでしたが、その彼らに聖霊は直接働きかけておられます。
心を神に開き、聖霊の働きを願いたい
わたしたちも怯むことなく、弟子たちと同じように自らの心を神に開き、すべてを見せた後に、主の前に自らを置きましょう。神の働きに逆らう何かを持っている「わたし」でも、悔いて、素直に自らを開くとき妨げは取り除かれます。聖霊の働きにより、どんなに悪の波が押し寄せても、それらを跳ねのけていく力が湧いてくるのです。これが聖霊の業です。
「わたし」は一人であって一人ではありません。人は一人にはなりえないのです。
聖霊がいつもともに、・・。
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