年間第15主日(A年)の説教=マタイ13・1~23
2020年7月12日
またもやコロナウイルスの感染拡大が、全国を駆け巡っていきそうな気配です。鹿児島の地元新聞「南日本新聞」を読んでいると、「新型コロナ集団感染81人に拡大」「県内13人確認、計98人に」とか「繁華街広がる危機感」「客戻ってきたのに」と、新型コロナウイルスに関する見出しが目につきます。(2020年7月6日朝刊)
コロナ禍に豪雨の災害まで重なれば…
これに加えて、また豪雨による自然災害が重なってきました。被害に遭われたみなさんには、気持ちの落ち着かない日々が続きます。一日も早い回復を祈り、願っています。
人間という「生き者」は、だからこそ、自らを明るくさせる何かを求め、探し当てる動きを祈りの中でも自然としてしまいます。新型コロナ、豪雨水害等の話題で満載の新聞紙上の中に、ほっとさせられる記事を見つけました。楽しさ、明るさに飢えた人間の心にオアシスが生まれたかのように、・・。
楽しい明るい話題も欲しくなり
「令和ベビーに名前付けてね」という呼びかけが掲載されています。(同紙上)その主は、平川動物公園(鹿児島市)です。令和生まれのコアラとチンパンジーの名前を募集しているのです。新型コロナウイルス感染症予防のため、園のホームページ(HP)かはがき、ファックスで受け付けるとのこと。2020年8月16日(日)までとなっています。
募集しているのは2019年6月と10月生まれの雌のコアラ二匹と、2020年2月生まれの雄のチンパンジーです。名付けの参考として、HPで歴代のコアラとチンパンジーの名前や生年月日などを紹介しています。
そして、選定委員会を開き、結果は8月末ごろHPや会員制交流サイト(SNS)上で公表する予定だといいます。福森朗園長は「コロナの影響で募集が遅れてしまったが、是非すてきな名前を考えてほしい」と呼び掛けています。また、採用者には記念品を贈ることにしています。
人の受容力と関心の対象は夫々だが…
わたしたち人間の受容力には、一人ひとり違いがあります。また、その方が何に関心があるのかによっても、受容内容とその範囲においても違いが出てきます。連日報道される新型コロナクラスター感染状況、知りたいと思いつつも、うんざりしてしまっている自分があります。やはり、マイナス情報、人間の負の部分ばかりを突き付けられると嫌になってくるものです。そこで、「令和ベビーに名前付けてね」というニュースを見たときに、わたしにとっては普段だとあまり関心を示さないかもなと思いながらも、つい読んでしまったのでした。
人はやはり楽しい、嬉しい、明るい情報、出来事を糧にしながら、自分の人としての感性、感覚を伸ばしていくものなんだと思います。それによって、自分が受け入れたもの、こと自体も豊かなものになって、他者へと受け継がれ、さらに豊かになって自分へと戻ってくることにもなります。
今日の福音朗読は、種まく人のたとえ話です。日本人の農家のお百姓さんの常識から言いますと、ちょっとおかしいのじゃない、と首をかしげてしまうのではないかと思います。だって、はじめから石地、いばらの畑、さらには道端と分かっていて種をまくなんて考えられないことだからです。きちんと地を耕してから種をまきます。
イエスの時代は耕地せずに種をまいた
ところが、当時のパレスティナでは全く逆でした。だから、無駄になる種もたくさん出たのです。どう見ても、こうした農民の働きは徒労でしかない作業に見えます。その上、収穫の率も決して高くはなりません。どんなに大きな生命力を内に秘めていた種でも、その土壌のあり方によってその生育はさまざまな結果をもたらすからです。自然界の植物などを見ても同じことが言えます。
これと同じように、とイエスは今日の福音でわたしたちにおっしゃりたいのです。「耳のあるものは聞きなさい」と。つまり、「あなたは、天の国の奥義を悟りたいと願っていますか。そのような人は今、わたしの言葉を聞きなさい」と誘われます。その言葉に託された神の秘密を悟ることへと導こうとされます。
徒労であっても、種をまき続けること
したがって、神に向かって頑なに心を閉ざす群衆に対し、それが徒労に終わってもいい、種をまき続けるイエスの姿があります。弟子たちはそれを見ています。それは、弟子たちが今後、諦めずに豊かな収穫を願って宣教し続けるようにと、このたとえをもって弟子たちを励ましているのです。今のわたしたちに向かっても同じです。宣教作業が徒労に終わったに見えても、その心はどこにあるのでしょうか。そこが肝心です。でないと、全き徒労で終わってしまうことになります。
すなわち、「たとえ話」では種そのものの運命に焦点が当てられています。ところが、その解釈の個所では、種をまかれた人間のがわの運命に焦点が移されています。「天の国の秘密を悟ることがゆるされていない」人たちへの宣教を、諦めてはいけないとの叱咤激励するイエスの心を感じ取ることができればいいなと思います。「わたしは諦めてはいないんだよ」という心と振る舞いです。
わたしたちの受容力は、常に、マイナスの出来事よりも、プラスの出来事に刺激を受け、より高みを目指します。徒労に終わったかのような作業でも、その実りを諦めていない限り、いつの日か実りはおとずれます。それがイエスの心であり、使徒たちの心です。そして、歴代の宣教師の心でしょう。わたしたちも現代の「宣教師」です。
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