年間第5主日(C年)の説教=ルカ5・1~10
2019年2月10日
「酪農は女性に向く仕事。乳牛も雌ですし、女同士、変化に敏感になれる」と笑って語るのは砂子田円佳(36歳)(すなこだ まどか)さん。かの女は、北海道広尾町で牧場を経営している女性牧場主です。(讀賣新聞大阪本社、2019年1月31日朝刊)
女性酪農家の活躍を報じる記事から
農林水産省によると、2015年の酪農従事者4万1282人のうち、女性の割合は42%の1万7291人。女性経営者に限ると2.5%に過ぎないということです。農業全体でも女性経営者は6.7%。農業経営はいまだ男性中心社会であるといえます。
砂子田さんは、酪農一家の次女として生まれ、カナダの牧場で2年間、研修生として学んだ経歴があります。その時、女性が経営者として地域の男性経営者と肩を並べて仕事している姿に驚いたと振り返っています。
24歳で帰国し、実家が設けた第2牧場を任され、町第一号の女性経営者となりました。幾多の困難を抱え、もちろん、失敗を繰り返しながらも、3年前に結婚した夫と年間678トンの牛乳を隣町のチーズ工場に出荷しているそうです。
カナダでの体験を活かし、新たな発想で
砂子田さんは言います。「勉強する必要もあるし、責任も重いけれど、仕事がより面白くなって自信がつく。楽しそうに働く女性が増えれば酪農の魅力も高まるはず」と。
人間だれにでも限界があるし、壁にぶつかってしまいます。そして、無力感の増大に直面し、投げ出したくなるときだってあります。多くの方が経験していることでしょう。それでも、砂子田さんにとっては、カナダで体験した「女性経営者」の姿は魅力的だったのでしょう。また、前例にとらわれない発想力やきめ細かさが、女性が経営に関わる際の特典になっているのではないかと思われます。
プロはできること、できないことを熟知
人間には足りないところがあると同時に、優れたところもたくさんあります。自らも驚くほどの、こんなこともできるのか、と感じる時があるものです。だからといって己惚れることはありませんが、自らのできること、できないことをしっかりと熟知していることは大事なことだと思います。熟知できていなくても、少なくとも、今のありのままの自分に気づくことではないでしょうか。少しでもそのようなゆとりがあれば、次のステップに進んで行けるような気がします。砂子田さんもそのように生きておられると感じます。
このような人の典型として、今日の福音のペトロを挙げることができのではないでしょうか。今日の話はペトロの召し出しです。
ペトロは漁師です。魚取りに関してはプロです。その彼が、一晩中漁をしても獲れなかった魚。プロであるということは、生活がかかっているということです。不漁が何を意味するか、ペトロ自身が一番分かっています。分かっているがゆえに自暴自棄になっても行きます。落ち込んでいるペトロに向かってイエスは言います。「沖に乗り出し、網を降ろして、漁をしなさい」と。ペトロは答えます。不漁で打ちのめされている自分の気持ちを、ひとまずイエスに告げます。しかし、続けます。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。そして、大漁に驚いてしまいます。
それでも!イエスの勧めで網を降ろすと
時々放映されるマグロ漁師の仕事のすさまじさを拝見しますと、彼らの意気込み、プロとしての真骨頂を目の当たりにさせられ、感動すらします。
そのプロの漁師、ペトロが、全くの素人であるイエスの言葉に従って網を降ろすとは、これまたどうした心境なのでしょうか。心身ともに疲れ果てた状況の中で、「参りました」、これ以上何ができましょうかという状況だったのではないでしょうか。こうなりますと、人間って、幼子のように身も心もお世話してくれる方に任せてしまうのでしょう。ペトロの心境はまさに、このような状態であったということはできないでしょうか。それは、もはや自分の意のままではなく、その方(イエス)の意に沿って動いているペトロがそこにいたといえます。
あまりの大漁に、漁師ペトロの心境は一変
このようなペトロの心境の変化を読み取ることができるのが、ペトロが使っているイエスへの呼び方です。「先生」から「主」へと変化しています。まさに参りました、というペトロが変化していった姿を示しています。ペトロ自身の罪深さを、自ら認めている姿を示していると同時に、イエスへの畏敬の念をも表現しているといえます。ペトロの生き方が明らかに方向転換しているのがうかがえます。
このことを、さらに確かなものとするしるしとして、イエスから新たな課題、使命がペトロに託されます。「人を漁(すな)どる」という使命です。これによって、ペトロの人生が大きく転換していきます。同時に救い主・イエスのドラマも、その展開が決定づけられたのです。イエスの選びによる恵みの結果とは言え、ペトロがイエスの呼びかけに自分を開いて委ねた姿勢をも見逃すわけにはいきません。
イエスの「呼びかけ」に自分を開き委ねた
私たちの日常でも同じようにイエスは「呼びかけ」ているのです。ありのままの自分をどのように見ていますか。そして、そのことをどのように感じていますか。自分の限界を知るとともに、ありのままを差し出しましょう。
イエスの選びは確かです。
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