年間第31主日(B年)の説教=マルコ12・28b~34
2018年11月4日
文科省の「問題行動・不登校調査」結果から
文部科学省は10月25日、2017年度に小中高校などで認知したいじめの件数が過去最多の412万4378件(前年度比9万1235件増)だったとする「問題行動・不登校調査」の結果を発表しました。(讀賣新聞大阪本社、2018年10月26日朝刊)
発表によりますと、学校別のいじめ認知件数は、小学校31万7121件、中学校8万424件、高校1万4789件で、小学校の低・中学年が特に急増しています。類型別では、「冷かしやからかい」が最も多く25万7996件。「軽くぶつかられたり、たたかれたりする」が8万7170件でした。
認知件数の急増は「発見」に重点を置いたためか
いじめの認知件数が急増した背景には、文科省の働きかけがあります。2017年3月、学校などの具体的な対応策を示した「いじめ防止基本方針」を改定し、「けんかやふざけ合いでも、いじめの有無を確認する」ことを追加いたしました。報道文面から感じることは、文科省はかなり強引に再検証を求めた気がします。いじめ件数を積極的に把握する動きはだいじなことだと思いますが、「いじめの発見」のみにとどまっていないでしょうか。
「いじめの芽は小さなうちに摘まなければいけない」とある校長先生はおっしゃいます。起きた現象を「無くす」だけにとどまっていては、真の解決にならないことはよくわかっていることです。なんといっても、「いじめ」は人間の内面に起因し、外面に現れる現象です。しかも、すべてが同じ現象をもたらすものでもありません。それにつれて、対応の在り方も変わってきます。すべての「いじめ」を「十把一からげ」にはできないのです。
しかし、それらを統計的に分類するとなると、表面をなでることで終わってしまうのではないかと危惧されます。つまり、多くの事象を、無理やりに一つの分野に、「似た事案」のものとして押し込んでしまう可能性もあるからです。同時に、数とか、傾向とかが気になり、データ収集だけで終わってしまい、それで満足してはいないでしょうか。そして、その結果の情報共有を終えて安心してしまうということはないでしょうか。
数値を把握しても、問題の本質には未達では
こと「人の育ち」に関して考えますと、全体の調査の過程で、人一人の置かれている状況・環境は、考慮されにくいのです。とはいっても、原点は一人ひとりの心、生き様にあるのではないでしょうか。たくさんのデータ、情報に囲まれすぎて「本物」をどこかに見失っている問題の取り上げ方が気になります。「今時の若者は」と言ったり、考えたりすることを通して、一般化、平均化して見てしまっているのでは、・・。「社会の常識」もそのようになっていくのでしょう。こうして、その人の「個性」が生かされることなく、埋没していきます。調査することが大変なことであることは、よく承知しています。
これと全く同じとはいえないでしょうが、イエスさまの時代にもこのような問題を抱えて生きていた人がいたといえます。今日の福音に登場する律法学者がそうです。
「すべての掟のうちで、どれが第一の掟ですか」と、イエスさまの前に進み出て尋ねます。律法学者と言えば、当時の社会では指導者階級に属し、民衆の生き方にかなりの影響力を持っていた人です。しかも、律法については一番詳しい専門家でもありました。その彼が、何を思って尋ねたのでしょうか。
律法学者は、イエスに「律法」の原点を尋ねた
国には憲法があり、そこから具体的な法律が誕生してきます。法律をたくさん作り続けていきますと、その法律が目指している根本的な精神がぼやけてくることもあるのでしょうか。多分、この律法学者がそうだったのでないかと思ってしまいます。やはり、絶えず「原点」に戻ってみることも大事なのです。そのことを確かめるために、イエスさまに近づいていったのでしょう。きっぱりとイエスさまは答えます。「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力をつくして、あなたの神である主を愛せよ』。第二の掟はこれである。『隣人をあなた自身のように愛せよ』。この二つの掟よりも大事な掟はない」と。
答は、神と隣人を愛する掟より大事な掟はない
律法学者は、イエスさまの答えに満足したのでしょうか、自分の理解は間違っていなかったという確信を得たのでしょう。「先生、確かにそうです」と反応します。その中に「愛することのすばらしさ」が語られています。「愛する」という言葉ほどに、分かっているような気がして、その実、わかっていない言葉もないのではないでしょうか。また、都合よく使われている言葉でもあるような気がします。
「お互いを大切にする心」がお互いにあれば、お互いが生かされていくことになります。生きる出発点が「相手」にある時、希望に満ちた楽しい生き方を、一人ひとりが満喫できるようになります。信仰者の生き甲斐もそこにあるのではないでしょうか。「愛する」生き方はここに原点があります。「わたし」の日常はどうでしょうか。
今や社会問題化している「いじめ」をなくす施策の道は、その原点である一人ひとりの心の育ちにたどりつくことではないでしょうか。そして、普通に正常な、穏やかな人間関係の回復にたどり着くのでは、・・・。
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