年間第20主日(B年)の説教=ヨハネ6・51~58
2018年8月19日
「御巣鷹の慰霊登山」を報じる記事から
「亡き父に『結婚しました』」父の墓標の前で、結婚を報告されたご家族がいらっしゃいます。(讀賣新聞大阪本社、2018年8月14日朝刊)
日航ジャンボ機事故から33年目の8月12日、遺族ら82家族272人が、墜落現場の「御巣鷹の尾根」に向かう慰霊登山を早朝から行いました。その中に、今年6月に結婚届を出した神戸市の小沢秀明さん(32歳)と新妻の裕美さん、母紀美さん(62歳)のご家族がいらっしゃいました。
事故の時は紀美さんのおなかの中にいた小沢さん。「父に会ったことはないけれど、結婚を喜んでくれているんじゃないかな」と笑顔です。事故当時、父孝之さんは29歳でした。母紀美さんは墓標の前で「3人で登れる日が来るなんて。わたしの結婚生活も幸せだったから、息子夫婦も同じ気持ちを感じてほしい」と目を細め、声を弾ませていました。
祈りを通して、一つになることができる
3人で孝之さんの墓標の前で手をあわせたその時、それぞれに、思いは違っているかもしれませんが、夫、父としての孝之さんに自ずとつながり、一つになろうとする心の動きは一つだったのではないでしょうか。人間にしかできない「祈り」の姿が、中身がここにあります。だから「祈り」は遠く離れていても、身近に思い出し、通じ合えるものなのです。
祈りは願い事ばかりを申し立てるのではなく、先ずは、この「報告」するということが大事であろうと思っています。今の自分の置かれている現実を通してのみ、願い事の中身が決まってくるからです。祈っている本人が、自分の置かれている今の環境をよく認知していることです。現実に根差した祈り、願いが、もっと大事にされなければいけないのではないでしょうか。
何かに手を合わせることが信仰の第一歩
この地球上にはたくさんの宗教があります。「わたしは神を信じません」とおっしゃる方にも、「手を合わせ」たくなる時があるのではないかと思います。神に手を合わせることはなくても、誰かを案じて、無事を願う思いって湧いてくるのではないかと思うんですが、・・。何も、他者についてではなくても、自分のことについては多少でも関心があるのではないかと思います。その思い、心こそ「信仰」への道のりではないかと思うんです。
その信仰の教えの中に、わたしたち人間の理解、理屈では考えられないものがあります。通常、人とのお付き合いの中で、相手の考え、気持ちと、自分のそれとが合わない場合どのようにするでしょうか。以後のお付き合いをやめることにするか、その合わない考えの部分だけは別個にして友人関係を続けるか、他にまだ考えられることがあるでしょうか。
常識では理解できないことであっても!
しかし、その人を「信じているから」との関係があれば、信じているからこそ分かり合えることってあるのではないでしょうか。仮に、第三者には通じなくても、・・。特に親子関係、恋人同士の関係などにみられるのではないかと思います。
今日の福音の中で、「わたしは天から降ってきた、生けるパンである。このパンを食べる人は永遠に生きる」というイエスさまの言葉は、人々を驚かせ、また、疑問を抱かせてしまう結果になりました。人の常識では到底考えることができないからです。つまり、「自分の肉を食べさせ、血を飲ませる」とはどんなことで、どのようにそうすることができるのだろうと。
聖書には邦訳で「食べる」となっていますが、ギリシャ語原文によりますと、「人を殺す」「しいたげる」の響きをもった言葉だそうです。つまり、イエスさまの受難と死を暗示しているといえます。また、「血を飲む」という言葉は、「いけにえ」に関係している言葉で、それは、おもに、罪の償いのためのものでした。
食べる、飲むはイエスと一体となること
これからわかることは、「イエスの肉を食べる、血を飲む」という表現の中に込められていることは、イエスさまの十字架上での死が、わたしたちのためであることをしっかりと自覚し、わたしたち一人ひとりの生き方が、イエスさまの心に合わさって一つになろうとする姿であることが求められているということでしょう。
十字架上の死は、外見上はただの「死」です。しかも、死刑であり、常識的にみれば敗北です。そこに、救いの力があるなんて誰も気づかないし、知る由もありません。民衆が去っていくのも致し方なかったと言えるでしょうか。しかし、それがほんの少しでもいい、「信仰」のあった弟子たちはかろうじて残ったのです。自分たちは弱くても、信じていたイエスさまがおっしゃることだから、全く「理解」できなかったとしても「分かる」一条の光を感じたのでした。
信じている人と一つ心になるとは、わたしたちが日常、人との間で体験していることでもあるのです。その人が、自分にとって大事な人であればあるだけ、・・・。
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