復活節第6主日(B年)の説教=ヨハネ15・9~17
2018年5月6日
2025年頃は、5人に一人が75歳以上に
賑やかな温泉街のど真ん中に廃墟同然の古旅館、ゴースト化した町や村の話を聞いたり、実際に見たりすると、これらの現象は、長年にわたる人口減少の影響かなと思ってしまいます。人口減少のみにとどまらず、それは高齢化への道をもまっしぐらです。また、若者が地方に残ることなく、大都会に出てしまう現象にも拍車がかかっています。現に、地方においては、あちらこちらに空き家が増えつつあるようです。これまた、新たな現代の大問題です。
そして今、「2025年問題」があるといいます。ご存知のように、第二次世界大戦後間もない1940年代後半にたくさん生まれた世代は「団塊世代」と呼ばれています。この世代全員が2025年になると、75歳以上になり、人口のおよそ5人に一人が75歳以上になる見込みだというのです。(讀賣新聞大阪本社、2018年4月30日朝刊)
看取りの多様な仕組みも、今後の課題
これに伴い、医療や介護など、社会保障分野で必要な費用が急増し、国の財政を一層圧迫する恐れがあります。このことが「2025年問題」といわれています。
また、「2025年問題」はお金の話だけではありません。一年に亡くなる人が約154万人に上る「多死社会」にも直面するといわれます。2025年ごろになると、病院だけでは対応できなくなり、自宅や特別養護老人ホームなどの介護施設でも安心して最期を迎えられるように、みとりの仕組みを十分に整えていく必要があるといわれています。
わたしたちが生活している社会、自然環境は、その中に生きるわたしたち一人ひとりに多大な影響を与えます。自然の変化に癒されたり、悲惨な目にあったり、喜んだり、悲しんだりと、その度にわたしたちの心身に与える影響は良かったり、悪かったりします。社会環境から受ける結果についても同じことが言えます。わたしたちの力ではどうしようもないことが多いのです。
時代への対応として神を求める人もいる?
それでも何か対策を講じようとします。良かれと思って施す策ではあるんですが、結果として以前よりも悪くなったりすることだってあります。人間の限界です。ついには、全く、のがれ場をなくしてしまう人も出てきます。そのような状況に落ち込んだ時に人はどうするのでしょうか。
人それぞれに対応の仕方が違ってくるでしょう。その中に、神に逃げる人々もいます。というよりも、人としての自分の本来の生き方を求めて、神に向かうのです。
詩編の言葉を思い出します。
「いと高き方の保護のもとに座し、全能者の陰に宿る者は言うがよい、『主よ、わたしの逃れ場、わたしの砦、わたしの寄り頼む神よ』と」。(詩編91の1)
宗教は逃避ではない、勇気ある生き方だ
「何かあると、宗教に逃げる」と言って、そのような人を非難する人々もいるようですが、逆に勇気ある行動、生き方であると思っています。むしろ、宗教、信仰がないから価値観にバラつきができて、刹那的な世渡り、生き方になっているといえないでしょうか。それも、実際にはかなりの自己葛藤があるのです。迷いつつも、寄り道をしながらも、戻るべき場があるということは、最終的にその人を安心させてくれます。こうして、納まるべきところに納まっていきます。
それは、人間は自らの力で、何でもできるわけがないということを前提としているからです。つまり、自己の不完全さ、力不足を、謙虚に認めているということです。「隣人を自分のように愛せよ」ということはできるとしても、「キリストが愛したように」「神が愛するように」人々を愛するということは到底できないことです。
わたしたちは言うまでもなくエゴイストです。心のどこかで自分を最優先していこうとする動きがうごめいています。それは表に出てこないので、第三者が確認することはできませんが、いろいろな打算や下心が右往左往しているのではないでしょうか。このようなわたしたちの現実を十分に承知の上で、「キリストが愛したように、隣人を愛しなさい」という高い目標を、イエスさまは命令なさいます。わたしたち人間だけの力では不可能なことではあっても、神の助け(恩恵)があれば可能なのです。だから、いつも高い目標、理想を抱くべきだと、イエスさまはおっしゃいます。
弱さを助け導いてくれる聖霊を意識すべし
わたしたちの日々のなすべき努力は、「わたしたちの弱さを助け、導いてくださる」聖霊を意識し、信頼していくことでしょう。そして、目の前の問題を「人として」「信仰者として」対応していく姿が、隣人愛の実践につながっていくのではないでしょうか。「神に逃げる」ことは卑怯者ではありません。弱虫ではありません。人としての温かさを育むことです。豊かな心を抱くことです。一人ひとりがこのことに気付いていけば、・・・。
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