王であるキリスト(A年)の説教=マタイ25・31~46
2017年11月26日
伝統作法からのインスピレーション
日本の伝統的な作法というと、みなさんは何を思われますか。儀式における堅苦しくて窮屈な動作や、飲食の際のテーブルマナーのようなものを連想されるのでしょうか。
現代の作法やマナーは、日常の立ち居振る舞いよりも、しつけやたしなみに重点が置かれるようになり、本来の姿が忘れ去られてしまっているような感じがすると言われます。
武士の鍛錬法でもあった「立つ」「歩く」「座る」
古来、鎌倉時代から八百年もの間、武家を中心に連綿と伝わる日本の伝統作法・小笠原流礼法では、「立つ」「歩く」「座る」という普段何気なく行っている姿勢や動作が、最も大切な作法の基本として位置づけられてきました。諸大名や上級武士たちに殿中での振る舞いを指導する礼法として、さまざまな約束事が生まれましたが、基本的には武士がお上を守るため、ふだんの生活の中で足腰を鍛える鍛錬法でもあったのです。(「日本の作法」小笠原清忠著、青春文庫)
現代では、ジムに通って体を鍛えたり、スポーツや他の運動をしたりして筋力や体力を養い、維持したりします。しかし、かつての武士は、そのようなことをしなくても、筋力や体力は現代のわれわれよりもずっとあったといわれます。つまり、日常生活そのものが体を鍛えることにつながっていたのです。「立つ」「歩く」「座る」という動作そのものが足腰を鍛え、健康な体を育んでいったのでした。
和室で襖や障子を開ける所作を観察すると・・・
その一つをご紹介しましょう。すでにご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、和室で襖や障子を開ける時、どうなさいますか。引手に両手を添えて開けることが正しいマナーだと思われますか。上述の著者は、体の筋肉の働きや物の機能を考えれば、両手で開けることは理にかなっていないことだと言われます。
「まずは左手で襖を開け、体の正面で手を替えて、右手で開くというのが、腕の筋肉に沿った無駄のない動きであり、物を大切にする所作でもあるわけです」と説明なさいます。付け加えて「これが古来の作法と形式的なマナーやエチケットとの違いです」と。
きれいな所作は普段の生活のリズムから
ここまで丁寧に厳密に実行している人はいらっしゃらないかもしれませんが、こうした所作に近い動きをしている人は、いると思います。特に、旅館とか料理店にお勤めの方々にとりましては、そうではないでしょうか。無駄のない動きは見ていて美しいですし、違和感がありませんよね。
このような動きが普通にできるようになるには、普段の生活リズムに、所作が取り入れられていることが必要な気がします。そして、洗練された品格となってその人の個性につながっていくのではないんでしょうか。普段の動きであるがゆえに、小さな、目立たない、それでいて何回も繰り返され、積み重ねられていく動きです。
信仰の気づきも、日常の生き方の中でこそ
信仰も、そうした日常の普段の生き方の中で気づき、発見し、中身を豊かにしていくものだろうと思います。今日は年間最後の主日です。「王であるキリスト」の祝日です。
神の前で何が価値ある評価をいただくのかということが述べられているようです。世の終わりの時になされる「裁き」の基準が示されているようです。
愛の業は特別なことを目指さなくても良い
イエスさまのみことばを見ますと、わたしたち皆に等しく、やさしく呼びかけておられるような気がします。つまり、何か特別な目立つ業をしなければいけないというのではなく、ごく普通に生きる中から、神がその評価できることを「わたし」の中に見つけてくださる姿を感じます。
その根底にある唯一の基準は、「愛の業」です。
福音にありますように、渇いている人に水を差しだし、裸の人に着せ、苦しんでいる人になぐさめの言葉をかけ、疲れている人にほほえみを与えることです。ただ心がけたいことは、自己満足、自負心とおごりに毒されないことでしょう。
愛の業は普段みなが、何気なくやっていること
人として、ごくあたりまえのことをあたりまえのこととして行えばいいのです。普段みなが、何気なくやっていることです。その業を通して、日々、わたしたちはイエスさまに出会っているのです。これには気付きたいですね。「最も小さな者の一人にしたことは、わたしにしたのである」とおっしゃっておられるからです。
朝目覚めたときの第一声をイエスさまに向けて叫びたいですね。普段の「わたし」の動き、業となっていきますように。そして、この一日を奉献して、・・。
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