年間第24主日(B年)の説教=マルコ8.27~35
2015年9月13日
人それぞれに、「気になる人」がいるのではないでしょうか。どのように気なっているのか、それによって、その人とのかかわり方に影響が出てきます。「いい人」としての気になりかただと、尊敬の対象となり、自分が生きる目標的な存在者となっていくこともあります。
また、その方が同じ世代、同じ場所に存在していなくても、気になる人はいるものです。よく知られている、あの放蕩のかぎりをつくしたアウグスティヌスは、故郷の友人が来訪した際に、砂漠で隠遁生活を送っていた聖アントニオの克己修道の生活について聞いたとき、感動のあまり興奮し、流れ落ちる涙をぬぐおうともしなかったそうです。
そして、ついに、母・モニカの願いかなって、教会のふところに迎え入れられたのでした。その他にも似たような体験を持っている歴史上の人たちはいると思います。それは「気になる人」がいつの時代にも、どこにもいるということでしょう。
イエスさまは、中でも最高の「気になる人」だったのではないでしょうか。敵味方、男女関係なく、幅広く多くの人々から注目され、イエスさまを知れば知るほど、その人たちはイエスさまに吸い込まれていったのです。
しかし、同時に落とし穴がありました。ペトロも「キリスト(メシア)です」と宣言しながらも、ペトロの頭にあるメシア像は、強烈な引力で人々を魅了し、群衆を一つにし、ローマの支配から人々を解放する力強いメシアでした。イエスさまの中においては、それは人の思いであり、神の思いではなかったのでした。
イエスさまが示す「メシア像」は「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」メシアでした。使徒たちのそれとは相いれないものです。あくまでも「殺される」メシアなのです。この世の人の子らの苦しみのすべてを知り、自らそれを担ってくださる神のしもべとしてのメシアなのです。
いずれにせよ、わたしたちにとって、いい人としての「気になる人」については、もっと正確に知りたくなるものではないでしょうか。とはいえ、「悪い人として」気になる人って、はたしているのでしょうか。その実、いないのではないでしょうか。いるのであれば、そう思う人の、はなはだ身勝手な心情といえそうです。わたしにとっては、・・。ここに葛藤があるのです。
イエスさまが気になっていますか!?
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