年間第17主日(B年)の説教=ヨハネ6.1~15
2015年7月26日
「わたしたちは自由」とはいっても、いつも、どこにいても限界、不自由さを感じております。そして、その「限界」を、通常はまったく気にしていません。人は意識の奥では、その方が当たり前であると思っているからです。
こうした現実は、他にもあるような気がします。通常は平気な表情をしていても、いざ何かが起きると今まで見たこともない表情が出てしまうものです。出てしまうなんてことを日常は思ったこともないのに、・・。
例えば、神仏などは信じないし、信じようと思ったこともない、と言う一方で、窮地に追いやられますと知らないうちに神に、仏に向かっているのではないでしょうか。体で表現しなくても心のうちでは、そっと手を合わせているのではないかと思うんですよ。これは私の独断ですが、・・。
人は常に他者に開かれて生きています。そうあってこそわたしたちには「成長」があります。さらに、共に成長しあえるのです。だから、共同体が身近に必要だし、大事になってきます。人は自ずと「群れる」方向に動き出します。
今日の福音でも群衆はイエスさまを中心に「群れて」います。そして、イエスさまの中にある「ある不思議な何か」に頼ろうとします。おねだりします。自分たちが望む目的を達成したいのです。それは「王にするために」自分たちのほうに、イエスさまをつかせたかったのでしょう。
人々はイエスさまを王にして、自分たちをローマの支配から解放してくれるリーダーにしたかったのでしょう。イエスさまの奇跡の中に、自分たちを救ってくれる力を感じ取ったのです。王は王でも、地上の王国の王であることを人々は望んでいました。それを知ってイエスさまは一人山に退かれます。
イエスさまにとって、今日の福音の奇跡は、「しるし」でした。パンをあきるほど食べさせてくれる王ではなく、「永遠のいのちのパン(糧)」であることを示すためのものだったのです。ヨハネは書いています。イエスさまは「ご自分では何をしようとしているかを知っておられた」のです。ここに、パン増やしの奇跡のイエスさまの意図を感じます。
いつの時代も、思っていることと現実には大きな違いがあります。というより、自分では想定していない「自分」に気づかされることがあります。自分以外の人、ものに影響されるからです。一つの出会いが刺激となって次のステップへと上昇していきます。わたしたちは不自由さを感じながら、わずらわしさを覚えながらも、それが普通であるとどこかで受け止めているのです。これからも「普通」をさりげなく味わっていきたいですね。
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