キリストの聖体(B年)の説教=マルコ14.12~16、22~26
2015年6月7日
ある日、今は亡き親の話をしている中で、「親御さんの形見ある?」と聞かれ、そういえばないな、と思っていると、小さな置時計を思い出しました。「形見」と言えるほどのものでもないんですが、父親の永年勤続の表彰の副賞でいただいたものを譲り受けたものです。
それまでしまっておいたものを、その時引き出して電池を入れてみましたが動きませんでした。長い間、電池を入れたまま放置していたので、どうしようもできませんと時計屋さん。今では、飾り台の上に静かに「鎮座おわします」、です。
今日は「キリストの聖体」の主日です。ご聖体の制定は、最後の晩餐の席上でなされました。十字架の死を目前に控えた最後の、最後の場でありました。別の見方をしますと、人間の醜さ、エゴイズムが最高潮に達した時でもありました。イエスさまには、殺されるような理由は何一つないのに、人々の労苦や重荷、負債を全部背負って十字架に向かわれました。
イエスさまをその道に進ませたものは、わたしたち人間に対する真のあわれみだったのです。しかし、当時の指導者階級の人々は、イエスさまの行動、ことば、人格を正確に理解できていませんでした。その結果、イエスさまを拒否し、邪魔な存在としてこの世から追放しようとしたのです。
このように、人の醜さが頂点に達しようとすればそれだけ、その醜さをつつみこむ愛の極みが膨らんでくるのです。その「ふくらみ」のしるし(形見)がご聖体の秘跡です。しかも、人間一人ひとりの中に飛び込んでいかれます。もろくて醜い、弱いものを身におびていながらも、いや、そのことを知っているからこそ、イエスさまは飛び込んでこられるのです。
そして、わたしたち一人ひとりの人生とともに歩まれ、一人ひとりと一体になろうとされます。もろく壊れやすい弱いわたしたちを、内側から支え、力づけようとされるのです。イエスさまは、そして、このことに真剣です。
ミサにあずかり、聖体をいただくたびに、このことを意識し、イエスさまが残されたわたしたちへの愛の極みを思い、しっかりとこれに応える姿勢を培いたいものです。世の終わりまでわたしたちとともにいて支え続けてくれるイエスさまに、愛の形見、聖体の秘跡を譲り受け、その愛を証し続ける新たな初日といたしましょう。
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