待降節第4主日(B年)の説教=ルカ1.26~38
2014年12月21日
年末は何かにつけて「けじめ」をつけたくなる雰囲気になります。中でも「忘年会」とはよく言ったもので、今年のことは水に流して、来年こそは、・・と意気込んでみたくなります。今年のことを忘れては困りますが、「新たに上乗せしていく」という気持ちは大事にしたい言葉であり、もっと言うなれば、自らを高める「やる気」を増長させたいものです。
ユダヤの民が願ってきた人間の救いは、長年の悲願でした。一般に「救い」といっても、民族によってその意味する中身が異なるように思いますが、・・・。それだけ具体的であり、身近な出来事ということができます。同時に、一度、見失ったものを再び取得するためには、かなりの時間と労力が必要になってくるということを、ユダヤの民は身をもって体験することになりました。
救いの手を差し伸べてくださった神に対して、「ノー」を突き付けた彼らの生活反応が、自らの気持ちをさらに減退させていきました。「やる気」が失せて、「救い」に関する信仰伝達の「閉塞状態」におちいってしまったのではないでしょうか。
だからこそマリアは祈り続けたのです。降誕祭前の最後の日曜日の典礼にマリアが登場します。そのマリアは、「あなたは、主の前に恵みを得たのです」と、ガブリエルからのあいさつを受けます。イスラエルの民の歴史を通して、誰にも示されていなかった救い主誕生の出来事が、誰にも気づかれないまま、天使ガブリエルからナザレのマリアに告げられたのでした。
天使の第一声は。「おめでとう」と訳されていますが、「喜びなさい」という意味の「おめでとう」だそうです。神がこの世の歴史の中に初めてもたらそうとしている「神の救い」の、最初の受領者になられたのです。まったく神の発意による、神の恵みによることです。
聖書の民が恵みとして感じ取るものは、神に「とくべつに目をかけられること」「とくべつな好意を受けること」の中に、恵みを見ているのです。ましてや、受けるほうに、自分には目をかけてもらえる価値や資格はないと思えば、それだけ恵みだという自覚が強くなります。
マリアはまさに、そのようでした。マリアが神の大きなまなざしにつつまれたのです。神はマリアにまなざしを向け、そのマリアを通して世界がつつみこまれていったのです。今もこの世で傷つき悲しむわたしたちの上に広がっているのです。神のまなざし(関わり)の中で、無に過ぎない「わたし」が評価を得るのです。
クリスマスを祝うということは、神の救いの「受領者」になることでしょう。
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