年間第25主日(A年)の説教=マタイ20.1~16
2014年9月21日
交通機関の発達は、世界の国々を、互いに近い存在にさせてくれます。飛行機の大型化とその性能の良さは、移動する人間の心身に心地よさを提供してくれます。
反面、デジタル化が進めば、アナログの世界で大事にされ、尊いものとして誰もが抱いていたものが廃れ、置き去りにされていきます。要するに、人間らしさが、その温もりが減退していくのです。こう感じるのはわたしだけでしょうか。要するに、日本人に関して言えば、「おもてなし」の中身が「浅くなっていく」感がしてなりません。
生きていくうえで大事なもの、ことはたくさんあるでしょう。なかでも、人を穏やかにし、安心させてくれるものは優しさであり、あわれみ深さではないのでしょうか。時には、取り違いがあって、妬みや対立のきっかけになることもありますが、それがまた、人間である所以でしょう。
今日の福音は、みなさんもよくご存知の「ブドウ園の労働者」の話です。最近は特に、グローバル化、デジタル化など、外来語があふれてきました。誰でもが使っている言葉でしょうが、ふと思ったことです。わたし流の言い方がゆるされるとすれば、さて、神さまはアナログがお好きか、デジタルがお好きか。とんでもない表現ですが、考えてみるのもいいかなと思います。
「ブドウ園の労働者」の話の中で、主人は一日につき、一デナリオンの約束で、労働者をブドウ園に送ります。朝早く、9時ごろ、12時ごろ、3時ごろ、さらには、5時ごろにも送り出します。夕方になって、賃金を支払うことになりました。最後の組から始まって一デナリオンずつが支払われていきます。最初の組の人たちが来て一デナリオンをもらいます。すると、文句が出ました。労働の量を比較した時、納得できなかったのです。主人はいいます。「友よ、わたしは不正なことは何もしていない。あなたはわたしと一デナリオの約束をしたではないか。あなたの分を取って帰りなさい」と。
主人と労働者の「異なる思い」が語られています。不平を言った労働者は、人間常識の世界では、なんとなく納得がいく話のような気がしますが、神の思いは、無条件です。「いいわけ」はありません。神の思いとわたしたちの思いとの間にある「異なる思い」はかなりの隔たりがあるようです。
つまり、神は限りなく「アナログ」派であるような気がします。細かい配慮、ぬくもり、誠実さをいつも大事にお示しになるからです。デジタル化へ進もうとしているわたしたちは、神の思いと人の思いの差異に悩み、痛感している日々ではないかと思うんですが、・・・。もっと悩んでしまいます。
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