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待降節第3主日:「救われるためには、どんなことでもします」と言う覚悟

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待降節第3主日(C年)の説教=ルカ3.10~18

2012年12月16日

寄り添うイエス毎日同じような時間に起き、そして、同じような時間に就寝する日々が続きます。さらに、限りある環境の中で生きるしかないわたしたちです。そうする生き方しかできないのです。したがって、わたしたちの成長の温床は、具体的な「此処」「この人」「この仕事」というように、目の前にある環境なのです。

毎日の活動行事と同じように、年に一度訪れる祝祭日があります。「キリスト降誕」の祭日もその一つです。その準備のために今、日々取り組んでいるわたしたちであると思います。大事なことは、その準備の中身です。今日の福音の中に「わたしたちはどうすればよいのですか」という表現が三度も繰り返されています。まさに、準備の中身のことが問われているような気がします。

わたしたちは「キリスト降誕」を年間の恒例行事としてみてはいませんか?!「行事」として見る限り、その祭日は「わたし」とは無関係に近いものとなります。だからこそ、地につかない信仰になり下がるのです。「通り一遍」のこととして、軽々しいものと化してしまいます。

今日の福音の人々が発した「わたしたちはどうすればいいのでしょうか」という言葉の裏には、年間行事としての一つであるという軽々しい気持ちは全くありませんでした。逆に、彼らの切実な思いが込められていた表現でした。

つまり、「わたしたちは、救われるためにはどんなことでもします」という覚悟があったのです。逆にいえば、自分たちは救われなければいけない存在であるということを、日常生活の中で感じ取っていったのでした。

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その上、ヨハネが提示した「するべきこと」とは、なにも、高尚なことではなく、だれにでもできることでした。「だれからも脅し取ったり、ゆすりとったりしてはならない。自分の給与で満足しなさい」というたぐいの隣人愛でした。

それぞれの置かれた環境に応じて、やさしさ、思いやり、いたわりあいを勧めています。一言でいえば、実生活の中での隣人愛の実践、これがイエスさまと出会う最高の準備であると今日の福音は伝えています。

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