四旬節第5主日(B年)の説教=ヨハネ12.20~33
2012年3月25日
わたしたちが生活している社会では、平等といいつつもそうでない現実が多々あります。それは、わたしたち一人ひとりの中に、「平等」の感覚を持ち合わせていないという証明になってはいないでしょうか。わたしたちは平等を希求しながらも、そうでない生き方を平気でやっているのです。それが社会の混乱を招いているひとつの要因になっているような気がします。混乱になることは望んではいないのですが、・・・。
それでも、あるひとつのことは、誰に対してもまったく「等しく」その身に起こります。どのような人でも、生きている限り一度は体験するものです。それは「死」です。どんなに権力ある人でも、資産家でも、これだけはどうしても避けて通るわけにはいかないのです。でも、その死に方はいろいろです。病気、事故死、災害、刑死等、多くの方に温かく見守られながらの死もあれば、だれにも知られずしてその命をおとす方もいます。最近では「孤独死」が問題になってきました。
とは言うものの、時の流れの中で、具体的な一人ひとりの死は忘れ去られていきます。どんなに著名人であっても、・・・。それでも、死の形がどうであれ、世界に影響を与え、気になり続けている人の死も、なくはないです。しかし、そう多くはないでしょう。その中で、イエスさまの死は、様々な意味で世界の人々に影響を与えています。その死は絵画に取り上げられ、研究の課題となり、信仰者にとっては常識、人間の知性を超えた救いの神秘となっています。
今日の福音で気になるみ言葉があります。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のまま残るが、死ねば豊かに実を結ぶ」。イエスさまがこの話で伝えたいことは何でしょうか。わたしたち人間には、生きることへの執着心があります。さらに、幸せであり続けたいという傾向を誰もが持っています。そのために、時としては、相手をおしのけたり、傷つけたりするのも、平気でしている場合があります。
「自分の命を愛する人はそれを失い、この世で命を憎む人は、それを保って永遠の命をえる」というみ言葉を重ね合わせてみますと、「自己愛の否定」の道を示しておられます。すなはち、自分の存在をひたすら隠していくこと、そこに新しい生命が息吹いてくるのです。自分が自分であり続ける限り、新たな命の息吹はありえないのです。
これがまた、イエスさまの生き方でした。おん父のお望みだったのです。ここに気づくことが、イエスさまの復活のメッセージなのかな、と感じます。
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