復活節第4主日(B年)の説教=ヨハネ10.11~18
2012年4月29日
人はいつの時代も、どこに住んでいても、物理的にも精神的にもある限界の中で動いています。つまり、そこで体験することも決して普遍的であるとはいえません。が、しかし、「わたし」の人となりにかなりの重要な影響力をもっています。日本にあるもので外国にはないもの、またその逆なこともあります。
今日の福音に登場する「羊と羊飼い」の話は、日本人にとって、あまりぴんとこない話ではないでしょうか。日本中いたるところに羊がいるわけではありません。しかも野放しで飼育しているのを、多くの日本人は見たことがありません。わたしなどは、せいぜい動物園でみるくらいでしょうか。そこでは羊本来の姿にお目にかかるのは、ほど遠いような気がします。
ところが、イエスさまにとっては羊と羊飼いの関係は、ごく日常的な光景でした。最近では、ペットブームで、小さな地方の村に行っても、夕方になるとどこからともなく親子連れ、お年寄りが出現します。犬の散歩です。いっしょに歩いている姿からわかるわけでもありませんが、ほほえましさを感じる散歩であったり、うんざりした顔をして散歩していたりと、さまざまなカップル(?)をみます。そもそも、ペットとは人間にとってどんな存在なのでしょう。
今日の福音で、イエスさまは羊と羊飼いの関係を「愛の論理」で説明します。羊の群れの先頭には、多くの場合、ヤギがいます。羊飼いは羊の群れの最後尾で見守ります。これも羊に対する羊飼いの愛の表現でしょうか。
雇われ人でない真の羊飼いは、羊のために自分の命を張るのです、とイエスさまはおっしゃいます。狼が襲ってくるとき、群れの背後から襲ってくるのが常識でしょう。そこには羊飼いがいるのです。そこで羊飼いは体を張るのです。命がけで羊を守ります。
イエスさまご自身の生き方がまさにこの羊飼いの生き方なのです。ご自分の命を張って(十字架上のいけにえ)人びとの身代わりとなるのです。そして、人びとを安心できるところに案内します。これが救いです。
イエスさまとわたしたち人間との関係は、現在でも、今までと同じく、良好な関係です。
それをわたしが受けるか受けないかの問題です。しかし、私の意志とは関係なく、イエスさまはいつも私の身近においでになります。羊と羊飼いと同じように、いつまでもイエスさまはわたしたちと起居をともになさいます。
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