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年間第19主日:とんでもない馬鹿げた話を思い巡らすゆとりを

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年間第19主日(B年)の説教=ヨハネ6.41~51

2012年8月12日

主との出会い

ベテランアナウンサーから聞いた話ですが、1分あればかなりの情報を伝達できるものだ、ということです。場合によっては「1分しか、・・・」なんですが「1分も、・・・」あるときもあります。同じ時間でも長く感じたり、短く感じたりします。不思議なものだなと思う時があります。

多分に精神状態に依存しているのではないかと思います。時間の長さは客観的には同じなんですが、それを短くしたり、長くしたりする主観者がいるのです。その「わたし」は育ちの環境から影響を受け、今の「わたし」があります。

ある本に次のような表現がありました。

「けなされて育つと、人をけなすようになる」
「親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる」
「愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ」
「認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる」

「人」としての大事な環境である親のあり方が、子どもに与える影響力の大きさを表現しているのだと思います。人の成長はたくさんの、いろいろな場でどれだけいい体験をするかにかかっているといっても過言ではないでしょう。そして、人としての常識を超えたものまでも体験できるような成長をなす人もいます。教会における「聖人」たちはまさにこのような人々ではないでしょうか。

それも「一足飛び」にそうなるのではありません。地道な日々の小さな積み重ねの上に現れる実りです。イエスさまの12使徒たちは、どうしようもない、しかし、普通の漁師でありました。長い時間をかけて、じわじわと養育なさったイエスさまは、今日の福音で、民衆からは「とんでもない馬鹿げた話だ」と否定される話を、正面から弟子たちに投げかけます。人としての育ちの中で、民衆と弟子たちは何が違っていたのでしょう。

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「彼はヨセフの子イエスではないか。その父も母もわれわれは知っている」と言って、人の「常識」の域にとどまってイエスさまを判断してしまいます。弟子たちは「思いめぐらす」のです。こうして、イエスさまの証人としての成長を遂げていきます。走りっぱなしでは疲れ果てます。急ぎ足ながら、じっくりと歩み続けましょう。

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