四旬節第1主日(A年)の説教=マタイ4・1~11
2011年3月13日
ふるさとを離れて生活するようになりますと、いつしか、ふるさとが無性に恋しくなるときがあります。特に学生のころは、ふるさとを離れて、初めのころはその現場になれることに必死となります。
ところが、多少落ち着いてくると、ふ~っとさびしくなってくるのです。俗に言う「五月病」です。最近ではあまり聞かなくなりましたが、”ホームシック”にかかる人が少なくなったのでしょうか。独り立ちがしっかりとできているということでしょうか。
いずれにしても、人間は不安定になると自分を見失ってしまいがちになります。
この度の聖地巡礼では、イェリコの「誘惑の山」に登りました。もちろん(?)ロープウェイで、山の中腹にあるギリシャ正教の修道院にお邪魔しました。隠遁修行したグロットがありました。この場所に着くまでに、ロープウェイで15分くらいかかります。
その途中で、いきなりゴンドラが止まります。3台のゴンドラがそろって止まるので、故障かなと思う人、「体重オーバーなんじゃない?」と冗談にいう人、とは言いながらも、「右側に傾いているよ」とのこえがきこえます。なんだか不安になっていく人もいます。しかも外国での出来事です。
イエスさまがかつて三つの誘惑を受けた荒れ野での出来事です。
こうした自然環境(気温、空気、景色等)の中で、今ゴンドラに閉じ込められたことをどのように感じているのか、とても大事なような気がします。双方とも不安に陥れられていることには変わりがないからです。
今日の主日は、神を大切にできなかった人間の姿と、おん父に対して最後まで誠実であられたイエスさまとが対比されています。さて、この「わたし」はどちらに属しているでしょうか。イエスさまは「現世的な」生き方に対して「ノー」という返事を出されたのです。
生活が保証される事がいかに大事なのかを追求するのが、アダム以来、人にとっての関心事となりました。それは今でも同じことが言えます。豊かな生活のためには、不法な手段による利益追求が平気でなされます。
こうした中で、わたしたちは何に対して「ノー」と言えるものがあるのでしょうか。一人ひとりにとって「荒れ野のとき」とはどんな「時」でしょうか。これらを通過して後、独り立ちできる存在になっていくのかな、・・・。
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